足元に沼がある。
膝に、脹脛に、足に、沼の中からぐずぐずと、人の手の形を象ったような泥濘が絡みつき、捕らえて離そうとしない。
やわらかい泥のようで居て、立ち上がる事は出来ない。その場を動けない。
沼の奥から響くのは、怨嗟の声。
ただ、責める。
我々は死んだのだ。
殺されたのだ。、と。

「やめて……。もうやめて……。市が、何をしたの……?」

お前の兄の所為だ。


お前の、所為だ。



『厄災の棘』



―ここ数日、領内を祈祷師や坊主、尼の類が多く出入りしている。

噂は耳にしていた。
だが、目前をこそこそと通り過ぎる姿を実際に見たのはこれが初めてで、信長は眉間に皺を寄せた。
足早にそちらに向かい出すその背を、護衛に付いていた小姓数名が慌てて追う。

「何を、しているか」

声を荒げはしないものの、強い調子で問うと、四つばかりの背中がびくり、と震えた。
声でそうとわかったものの、勘違いであって欲しい。そんな様子で恐る恐ると振り向く。

「の、信長様。これはまあ、とんだところを見られまして」

明らかに慌て、過度なまでに平伏して礼をする。
見れば二人は織田の者、後の二人は祈祷師と、その傍仕えの様だ。

「ぺこぺこするのは省け。いいから答えろ」
「これはこれは。ええ、ええと、実はこういった訳なんで御座います……」

怯え、もはや平常心を保つのもやっとな声で織田の家臣の一人が説明を始めた。
それを聴く内に、信長に付いていた小姓達が落ち着き無い、不安げな様子になって己の主人をそわそわと見上げた。
信長はただ、腕を組んだまま表情も変えず黙りこくって聴いている。

「市に、憑き物が憑きおった、と?」
「―え、ええ、そうなんでございます。お足が床から動かないそうで、数日お部屋からも出られず、お食事も口になさいません。
眠りも浅いようで我々見ておられず……」
「それで、ここ最近まじない師やらがうろついているのだな」
「お、お気づきになられていたとは……恐れ入ります。信長様のお耳に入れずにというのはいかにも宜しく無いとは思っていたのですが」

そこでもう一人の家臣が引き継いだ。

「信長様は、そういった神仏、迷信の類を嫌っておられるので、この様なお話にはいい顔をなされないとだろうと……。
手前勝手にそう判断してしまったので御座います」
「成る程」

確かに信長は超常現象、妖怪や幽霊は愚か、神仏に至ってまでも下らないと断じていた。
誰が信じていても、わざわざ構いはしない。公に禁止したりすることはなかった。
だが、己の身辺に持ち込まれるのは酷く嫌った。
自分では、全く敬う気も信じる気も無いのだ。
まじない師や祈祷師といった人種もダニの様な奴等と毛嫌いしていた。
その事は信長を知る者たちには有名で、だからこそ小姓たちもこの話の向きは良くないと、動揺したのだった。

「かと言って、医者に掛かってもこれは足の病ではない、とこう申しておりますので、お市様が治るのなら、とお叱り覚悟でついついに」

意外にも信長が至って穏やかに聞いているのを見て、周りの緊張は少しずつ解けて来ていた。
小姓たちも、その様な事情ならば、とほっとした雰囲気を持ち出している。
話が終わったと思うと、それまでぼんやりと眠そうな目をしていた信長が、じろ、と視線を四人に向けた。

「横一列に並べ。両手は下げ後ろに回し、左手で右手首を掴み、じっとせよ」

うろたえた空気の中、おずおずと言われるがままにする。
何事かと顔を見合す事も出来ない。余計な仕草をすれば怒りを買う恐れがある。
じわりと、信長の意思が伝わり、四人の背に汗が噴出した。

「の、信長様、も、申し訳御座いませぬ、平に、平にご容赦お願い申し上げ……!!」
「お、お願いでござりまする、お、お助け」

恐怖に駆られた者達が、溜まらず声を上げる。
声は震え、辛うじて何を言っているのかわかる様であった。
足元にも恐れがのぼり、がくがくと情けの無い震えを起す。
だが姿勢を崩すわけには行かない。
一人がひい、と小さな悲鳴をあげ、身じろぎをした。

「動くな」

信長が片足を踏み込み、腰の長剣を一気に抜いた。
大降りの剣を一薙ぎしたかと思うと、すっぱりと四人の首が胴から離れた。
首元からは血がどく、どくと心の臓の脈打つ刻みに合わせて血が高く吹き上がっている。そのうちぐずぐずと、頭を失った体が地に崩れ落ちた。
辺りに言い様の無い悪臭が立ち込める。血と、排泄物と、恐怖と、死の匂い。

「残れ」

信長は、死体達に一瞥もくれない。
目を皿のように開き蒼白の顔色で立ち竦んでいる小姓達に向き直り、そう言い付けると長剣を一振りして垂れ落ちる血を飛ばし、そのまま一人歩き去っていった。

(どこへ向かわれるのだろう)

恐らく自分達をおいていった意味は、後片付けをしろということであろう。
あの一言でそこまで理解できないと、信長には無能扱いをされる。

(決まっている。お市様のところだ)

脳裏に、市の姿が浮かぶ。
古参である者が言うには、彼女は昔は少しおっとりとし過ぎている感はあるものの、ごく普通の少女だったという。
ここのところの市は陰鬱に俯き、虚ろな目を時折り怯えたように伏せる姿しか見せない。
儚げで、今にも消え入りそうな姫君。
場に残るものの心に去来する思いは皆同じであった。
体を悪寒がかける。
今はただ、この空想が現実にならぬようにと、祈るのみだった。






返り血もそのまま、鈍く光る剣を携えたままに座敷に現れた信長を見た瞬間、市の脳裏に過ぎったのは

(ああ、殺されるんだ)

という思いであった。
彼の体を、剣を汚す血の由来は何か、という事にも考えが至らない。
ただ、地獄の悪鬼の如き兄の佇まいに、付着した血液は余りにも似つかわしく映った。
だが責苦にどんよりと濁った意識では余りはっきりと現実を認識できず、ただ微かに眉を顰めた。
信長の冷えた双眸が市を見下ろす。市もまた信長を見上げている。
太腿まで露わな両足にどす黒い泥状の"何か"が纏わりつき、畳の上に蟠っている。
それはごぽり、と時々泡を吹き出し、生き物かのように脈動している。
市は精気を削がれきってやつれた様な青白い顔をしている。
生来の美貌が却って心の磨耗を浮き立たせており、ふとすれば幽鬼にでも見紛う有様だった。
痛々しい有様の妹を目にしても信長の無感情な表情に変化は無い。

「今度は、お前の所に来たか」

呟かれた低い声に、市の目に緩い驚きの感情が浮かぶ。

「兄さま、見えるの?」

信長は問いに答えず、まだ血の乾ききっていない剣を市の頭上に大きく振りかざした。
身をすくめる事も出来ない。目を閉じる事も出来ない。
市は剣が振り下ろされるのを目を見開いて見つめた。

「はァッ」

信長が鋭く声を発したのと、市の足元、黒い蟠りの端に剣が深々と突き刺さるのはほぼ同時であった。
刹那、市の座っている位置を中心に畳の上に鋭い刃が何本も突き出した。
市自身の体だけを避け、何本もの剣が地から生え出たようであった。
それらの刃もまた、光を受けても僅かにも撥ね返す事の無いような宵闇の如き黒色をしている。
それらに、泥濘の中、市を捉えていた無数の手が千切れ、突き刺さり、串刺し状態になり刃の先に掲げられている。
幾つものどす黒い死人の腕が、串刺しで晒し者になっているような光景であった。
まだびくびくと断末魔に見える痙攣が走っている。
信長がすっ、っと背を起こす。
それまで呆けていた市の体に胃の腑を奥から突き上げるように恐怖が襲い来た。

「ああああああああああああああああっっ」

目の前に立つ実の兄が心底恐ろしく、悲鳴を押し止める事も出来ない。
その悲鳴を聞いてか否か、信長が重ねて哄笑を轟かせる。
部屋中に渦巻くその笑い声は、人の神経を刃物で嬲る様な響きを持っていた。

「はははははは!市!どうした!!貴様自身は傷一つ付いてはおるまい!!!!」

恐慌状態にある市には発された言葉は届かない。
ただ、逃げようと体が跳ねた。
チッ、と微かに痛みが足に走る。
それを見咎めた信長が眉を顰める。

「おい、動けば切れるぞ。人の身にもその刃は触れるからな」

呆れたような口調とどうでもいいような視線が市に投げかけられる。
市を落ち着かせようというような気は皆目感じられない。
市はただ大きく息を喘がせ、呼吸が整うまで小さく震え続けた。
自分を取り戻すにつれ、足の痛みが存在を主張するように熱を増す。
腿の内を切った様だ。つ、と血の流れる感触があった。

「あれ、は……手は、なんだったの……」

おそるおそる、見上げながら問うと、信長は既に一切の興味を失ったような顔で面倒くさそうに言った。

「ああ、あれか。俺が殺した奴等らしいな」

それは、わかっていた。
彼等がそう言っていた。だが実際生きた人間の口から聞くと不意に現実感が湧き、ぞくりとするものがあった。
己の勝手に見た妄念ではなく、本当に死人たちの姿であったのだ、と。
では先の兄の行動は、彼らを二度、殺したということになるのであろうか。

「俺に敵わぬからお前のところに来たようだな。解せぬ考えだが……。
それより、これだ。どうだ、面白いことが出来るだろうが」

信長が狂気を思わせる穏やかさを孕んだ笑みを浮かべながら、屹立したままの刃に触れる。
するとボロ、と触れた部分から朽ちたかのように綻ぶ。

「これもまた、同じものだ。俺の元に来たが逆にこうしてやった」
「じゃあ……これは、人なの……?」

市は目の前の刃を戦慄きながら凝視した。
死人を、それも己の殺した、異形と化して現る程に己を憎む者を隷属させているという事か。

「見ればわかるだろう。もう人ではない。俺の剣だ」

目の前で崩壊が始まった。
ボロボロと、刃が錆びて風化するが如く、消え去っていった。

「彼らに、まだ意志はあるのかしら」
「知らん。ただ、俺が呼べば先のように人を殺す道具になる。意志があればさぞ口惜しかろうが、愚かなのが悪い。一度俺に負け、体すら失い何をしに、またのこのこ来よるのだ。こうなるも条理よ」

信長は笑うと、剣を畳から引き抜いた。
その跡だけが克明に刻まれている。
後は跡形無く失せ消えてしまった。

「血を拭いておけよ」

信長はそれだけ言い残して、すたすたと居なくなってしまった。
市はへたり込んだまま呆然とその先を見つめていた。
冷や汗の引いた寒気が、ふるりと体を震わせた。


なんて恐ろしい事だろう。
兄さまは昔から強い。頭もいい。
だから、戦争がとても上手い。
きっと誰も敵わない。天下も取れるかもしれない。
でも、あんな事が許されるだろうか。
恐怖を道具にして。悲しみを、怒りを沢山生み出して。
死んだ人達の魂まであのように陵辱して。
そんな生が許されるだろうか。
神様なんて、兄さまは信じていない。
笑っているのだ。居ないものに囚われ、、自分のように出来ない、周りを。
だけど、本当に何も起きないなんて事があるだろうか。
何の報いも、無いなんてことが。


(もし報いがあったなら、きっと市も一緒に受けるんだ)

今回の事や、昔から感じていた謂れの無い思いから、市はそう確信を持った。

(怖い。でも市に兄さまは止められない。他の誰にも、きっと止められないんだ)

「ねぇ……」

市が一人口を開いた。
聞くものは居ない。だが居ればぞくりと身を震わせたであろう、虚ろで、艶を帯びた声だった。
緩慢に首を傾いで、市が俯く。
畳に付いた己の血の跡を指で擦る。

「まだ……居るの……?」

答えは無い。
全くの静寂の中、市は独りで呟き続ける。

「兄さまはね……止められない。繋がれてしまうだけ……。
ごめんね……?市が、悪いの。市が兄さまを止められないから……
だから……あなた達は、兄さまの所に行っちゃだめ。行っても無駄……
だから、ね? 市と、おいで?」

生身の男を官能に誘うような声音で市が誘う。
畳にまたぞわり、と黒い沼の染みが浮いた。
だがそれらはもう、市の命を奪おうとはしない。

「皆、市とおいで? そうしたら、いつか……」

部屋がじわじわと、黒に侵されていく。
その中心で市の笑い声が響いた。



<了>