見渡す限りの荒野に膨大な死とわずかに残った死に至らぬ苦痛が横たわっていた。
地には元々は”ヒト”が多く闊歩していたが、未だ辛うじて共生を覚えた程度の”ヒト”であり、
身を寄せ合い天候や病、闇を恐れて生きていた。
彼らは未だ、恐る他何も知らなかった。脅威に対抗する術を持たぬどころか、持とうとすらしないほど脆弱だった。
突如降り注いだ災厄にも、”ヒト”は薙ぎ倒され死にゆくだけだった。
のみならずあらゆる生命という生命が、災厄に脅え、呼吸すら止めんばかりに気配を消して、身を潜めて震える他なかった。

世界の終わりが、夕闇のように迫っていた。

遠呂智はその真中に佇み、荒野の惨状を睥睨した。
胸中は想像していたよりも遥かに酷い失望に襲われていた。
手にした大鎌は今までに無い程の多くの生きものの残滓が滴り、地に湿りをくれ続けていが、悲しむものはここにはいない。
遠呂智は己の凶行を省みても、それが心にいかなる憐れみも後悔も湧かせぬのを感じていた。
激しい憤りと、それすら麻痺させる厭世の想いが遠呂智をそこに佇ませていた。
あと鎌の一振るい、それだけで命を全滅させられた。
だが、それを行う程の意志を引き起こすのも億劫だったのだ。
あくまで善良で、支え合い、助け合う弱い命。
そんなものは遠呂智にとっては何の意味も持たなかった。

前触れなく突然、遠呂智の頭上に巨大な金属の塊が落ちて来た。
その質量による衝撃を浚にいや増す速度を伴っており、ぶつかれば元の形を留めるものはないだろう。
遠呂智に動じる様子は無い。ただ退屈そうな素振りで鎌の背で受け止める。
金属同士が勢いを付けてぶつかり合う。
高い衝撃音が大気の中をつんざき、土煙が舞い上がる。
巨大な金属―詰まるところ、それは使い手の身の丈以上もある大剣であった―の向こうに伏犠の細い双眸が覗いていた。
遠呂智が厭うように鎌を横に薙ぎ、伏犠はその力に逆らわず、少し離れた地にそのまま降り立った。

「よくもあれだけ少しの間に、まあここまで散らかしたものよな」

呆れた風に周囲を見回す。
形を留めているものは何もなかった。
不動と思えた山々すら無惨に崩壊していた。
土は焼け、川は血に染まり、死骸で溢れ返っている。何も知らなかった、生きもの達の死骸で。
あまり多くを見る必要は無かった。
一瞥すれば世界中全ての事がわかった。どこもここと似たようなものだからだ。
伏犠はまた、目の前の男に意識を戻した。
遠呂智にはそれだけの力がある。
仙界でも飛び抜けた破壊を生む力、それも、振るわずにはおれない衝動を伴った力だ―そうでなくては今の事態には至らなかっただろう―彼はその衝動付きの力さえ持ちさえしなければ仙人の一人、というだけの存在に過ぎないはずだったが、今や二度とそんな目で見られる事はないだろう。
過去を共有する者達にすら。

「満足か」

伏犠の投げ掛けた声に、遠呂智はゆっくりとした調子で返答した。
本当なら応える義理すらない、愚かな問いであると暗に示すように。

「満足?
馬鹿な。
失望しか感じぬ」

余りに、余りに弱すぎる。
遠呂智の抑揚の無い声には軽蔑が強く込められていた。

「当たり前じゃ。こいつらはお主に対抗するいかなる”力”も持っていなかった。
こいつらはお前とは違った―地上に争いは、”無かった”、のだから。お主がこうして持ち込むまでは」

言い聞かせるように伏犠は一言、一言をしっかりと発音した。
昇華仕切れ無かった衝動が燻り続けている眠たそうな目に変化は表れないのはわかっていたが。
遠呂智はただ、こう言っただけだった。

「貴様は、何をしに来た」
「これ以上殺させん為に」

伏犠は大剣を片手で肩の上に担ぎ上げ、にやっと笑った。

「失望させるな。一つ死骸が増えるだけだ」
「がっかりせんで良い。わしが勝てば、とどめを刺してやる」

遠呂智が僅かに目を細めた。
伏羲の剣は気に入らなかった。
だが、駆逐した地上の生命よりも弱い訳ではない。
全てを滅ぼす残りの作業よりは意義があるだろう。

「そうでなくては、貴様など退屈なだけだ」
「やる気になったか、よしよし。お主は少し、後悔を知った方が良いからな」

二つの人影が同時に動いた。遠呂智が片手をかざし手中に雷光を生み出す。
高く手を振り上げると空を裂き、あらゆる方向に雷光がほとばしった。
万の頭を持つ蛇が一度に首をもたげ、全てを食い尽くそうと襲い掛かるように、地を走り、通る跡に雷撃の牙を立てた。
伏犠は足を止め、剣で雷を受けた。振動と衝撃が走る。遠呂智は既に伏犠の側方から首目掛けて鎌を薙いでいた。
速い。間に合わない。
伏犠は大剣から両手を離し、その分軽くなった身を反転して遠呂智の懐側に潜り込んだ。
大鎌の死角。
そのまま迫りつつあった柄部分にしがみ付き、力任せに引きずられながら全体重をかけ続けた。
速度がやや鈍る。伏犠は地を蹴って遠呂智の胸部目掛けて、背中からぶち当たった。巨躯が血に倒される。伏犠は休まずに鎌を奪おうとするが、逆に強く引っ張られ、手が離れた。二度目の雷撃に伏犠は大人に投げ飛ばされた子供の様にフッ飛んだ。

「あ痛ァッ」

間が抜けて聞こえる声を上げて伏犠は地に叩き付けられ、転がった。
頭の中に手放した剣の事はあるのだが、キョロキョロ見回して拾いに行く訳にはいかない。それじゃこのまま大の字になって的にしてくれと叫ぶのと似たり寄ったりだ。魔物と化した仙界の戦士に、今は空手で向かうしかない。
容赦なく雷撃と、跳ね上げられた岩の固まりがつぶての様に飛んで来た。伏犠は転げ回って逃げ続けた。
瞬時に遠呂智が迫り、大鎌が振り下ろされる。
避け切れず鎧があちこち砕ける音がしていた。
痛みはまだ脳まで降りてこないが後々の厄介を、この数秒で、随分抱え込んだ筈だった。

これだから楽しい。
時間の流れ方が変わる。
寸刻がまるで飴の様に引き伸ばされ、指一つ動かすにも足りない瞬間に相手の動きを見ながら、死なぬ術と殺す術、その時点での最善を見極め、絶対に死なず、確実に殺す事を要求される。二つの術は相反するのが常であり、勝利を望めば死が近づき、守備を選べば死は遠ざかるが時間は更に引き伸ばされ、勝利もまた遠ざかる。
―そして、それでも死ぬ時は死ぬのだ。
針の先の様な一点の勝利の周囲に無数の死と、無数の不具が乱数に沿って散らばっている。
引き伸ばされ時間の中で決断が暴風雨の様に脳内を荒れ狂う。高速の思考。今この瞬間に必要ない人格が、人間性が、吹き荒れる風により吹き飛び、心が浮き上がる。瞬間が全てになる。存在の全てに。やがて戦うことが存在にとって代わる。

だから闘いは楽しい。

伏犠は片目の端、真っ赤に染まった視界のぼやけ始めていた辺りに自らの獲物を捉えた。
気が逸れ、左肩に熱が走る。骨が砕け、血が重吹いた。
仕方なかった。天秤を死に傾けるしかない。
伏羲は食い縛った歯の間から獣のような唸り声を洩らし、身を守ろうともせず大剣に飛びついた。
しかと柄を両手で捕え、殆ど投げ飛ばそうとしている程の勢いをつけて下から上に振り抜いた。
胸部に見事に命中し、鎧が血に染まる。オロチの上体が大きく仰のく。
伏羲は降ろしかけた足がおかしな方へ曲がりそうになるのを感じた。
折れている。だが思考すら介さずに伏羲はその足を踏み出す角度を少し変えただけで全体重をかけて踏み込んだ。
今度は足元へ叩きつける。
渾身の力で振り下ろされた大剣に、遠呂智の足が足の形状を失う。低いうめき声。
片足は膝から下を失っていて、組織と砕けた骨が断面を見せていた。

伏犠は一歩踏み出そうとして、体が全く意のままにならないのに気が付いた。
仙術(今や妖術だろうか)の一つでも知らぬ内に喰らったかと訝しんだが、事はもっと単純だった。
下を向くと自分の腹に大鎌が突き刺さっているのが見えたのだ。
傷はかなり深い。殆ど真っ二つになりかけている。
両足には既に感覚がなく、丸太の様に強張りビクともしない。爪先にじっとりと湿った冷たさを感じる。
伏犠は両手で鎌の刃を掴んだが、それ以上なにも出来なかった。
押すにも引くにも腕の力が足りない。引き潮の様に体の力が抜けていく。
体重がどんどん増していく錯覚を覚えた。

(まずいな)

全身少しでもどこか動かぬかと力を込めた。
直後重心がぐらつき、崩れ落ちる様に倒れ伏した。
鎌を刺したままだ、と伏犠は思った。どんな倒れ方をしただろうか。
今度こそ真っ二つになってやしまいか?

地に押し付けられた片方の耳に、遥か地の底から地鳴りが響いていた。
痛め付けられた地盤が割れ砕け、歪に圧し重なっているのが見えるようだった。
地盤の隙間に、行き場を追い求める力を溜め込みながら。
遠からず激しい地震が世界を襲うだろう。
大地は津波により海中へ引きずり込まれる。
水の中踊り狂い振り回され粉々になっていく、無数の死体。
だが神話はその苦痛や悲しみまで伝えることはないだろう。
奪われた生が、どんなものだったのか、伝えられる事は無い。
死者達が自らの身体と共に、水底へ持って行ってしまうだろう。

喉の奥からせり上がってきた血が口内に溢れ出した。
嚥下しようとするが横たわったままなので結局鼻の方へ逆流した。
既に大分血を流している。
熱病に掛かったようにぼやけ、痛む頭と不規則に弾む呼吸。
世界が回っていた。吐きそうだった。
目を閉じると同時に伏犠は気絶した。
























ストラルドブラグ(不死人間)