長政は足早に廊下を突き進む。
もう後へは戻れない。一度始めてしまえば終わりまでもう止める事は出来ない。
逆らうのだ。あの男に。
今日まで部屋に篭っている間はずっと、一人己の心と戦っていた。
信長と会う前の自分と、今の自分。状況の何が変ったわけでもない。
ただ、己の中が大きく揺らいだのだ。
今まで、正義と信じればどんな事でも出来た。邪魔なものは迷いなく削除できた。
だがその姿を見る、周囲の目は恐怖を浮かべている事に気付き、疑問が生じた。

一人闇の中鏡を覗くと信長の姿が映っていた。
己と同じように、歩んできた男。
手腕と力という意味では、長政より勝ってはいたが、顧みず"削除"するという、手段は全く同じだった。
もう一人の男は魔王と呼ばれていた。
多くの死を、悲しみを、怒りを一身に受け、全てを"是非も無い"と片付け、捻じ伏せ、振り返ることをしない。
その姿を目にして、初めて己の姿を顧みた。

目指していたのは、あれか?
あの姿なのか?

一度足元に転がる死人達の怨嗟を聞いてしまうと、迷いに身動きが取れなくなった。
全て放棄しろ、と男は長政に言った。
情愛も、真の理想も、枷にしかならないと。

(出来ない。それは人であることを捨てるという事だ。結局私はその領域までは達せない。
つまり、私は魔王のなりそこねなんだ。ああまで削除に徹し切れなかった。
だが魔と化すくらいならその方がずっといい。
正義への愛は私の誇りだ。
これを捨て去り、善悪に対する拘りすら無く、手段に徹しきるくらいなら、人間のまま、魔王と戦う)

戦わなくてはならないと思うと、全身に震えが走った。
先から廊下板の冷たさが爪先から這い上がり、身体がじわじわと冷えていく。
心臓が鼓動し、頭だけは逆上せた様に熱いのに、身体は首元まで冷え切っいる。心臓が血を作っていないかの様だ。
死ぬかもしれないと思うととてもおそろしい。
全てが頓挫してしまう。何も為さないまま、信じた正義を妄念と嘲られたまま。



長政は締め切った部屋の中、行く晩も眠る事が出来なかった事を思い出した。
寝入りそうになるたんびに悪夢を見た。
殆どの内容は覚えていない。
一つだけ鮮明だったものは、未だに心に描くと震えが走る。

どこかの戦場。
土煙が舞い、視界が利かない。四方どちらを向いても、建物や木の影は無い。
ただ、土と砂の世界だった。
喧騒は響くし、兵士は大勢いる。だが、誰も長政に向かっては来ない。
長政は両手を下ろし呆然としているだけだが、それでも傷一つつかない。
直ぐ目の前に信長の背がある。
背に真紅を靡かせる長大な男の影は、異形の鬼そのものだった。
手に持つ長剣が軽く薙がれるだけで、うず高い死体の山が築かれる。
敵兵たちは全く為す術も見つけられず、泣き叫びながら死んでいった。
長政はそれをぼんやりと見ている。
何の感情も沸き起こらない。ただ、それを一つの作業と認識して眺めているだけだ。
死も、血も、悲鳴も、事実と、色と、音にしか感じられない。
だが、ふと、夢ならではの不条理さを伴って一つの事実が脳裏に閃く。
あの、山のどこかに市が混ざっている、と。
気付かず、信長が斬ってしまったに違いない。
途端に恐怖を覚え、信長の背に向かって絶叫する。

「兄者、待ってください、市が」

喉を振り絞っているつもりなのに、ものが詰まったように声が出ない。
気持ちだけが焦り、口をパクパクと喘がせる。
声が出ていないはずなのに、信長の影から、低く声が響く。

「問題ない」

それを聞いて、長政はほっとした。
そうか、市は殺していいものであったのか。
間違いではなく、意志を持って斬ったのか。

ならいいんだ。



そこで眼が覚め、反射的に跳ね起きた。
全身に冷たい汗をじっとりとかいていた。

夢は夢だ。特別げんを担ぐ方でない長政にとっては、それ以上でも以下でもない。
だが、それでは済まされない現実味のある恐怖があった。

(あの時、私の魂は死んでいた)

爪先を繰り出す度にうねる廊下の板の目を、意味も無く目で追いながら、長政は苦い自己嫌悪を噛み締めた。

魂の芯から従属しきっていた。
あの男の言うとおりに。思考を停止させて。
この上もなく楽で、安らかだった。
散々苦しんだ悩みも、疑念も、自己嫌悪も、全てが無縁だった。
己が信念、正義を捨てる事が出来れば、ああも生きやすくなるというのは長政にとって衝撃だった。
これまで、どれだけ己の信念に雁字搦めにされていたのだろうか。
この世の悪は、長政一人で相手するには余りに膨大すぎた。
悪意は何処にでもあった。
全てを消し去るなど、夢想だと、誰もがわかっている。わかった上で、自分自身の人生に気を配ることが出来る。
長政にはそれが出来なかった。
どこかで、非力なものが死んでいる。
どこかで、悪しきものが弱きものから盗んでいる。
どこかで、子供が泣いている。どこかで、赤ん坊が餓えて死んでいる。
その事象を一つとして他人事と割り切れなかった。
どこか一箇所ででも、起きていてはいけないことだった。
許せない余り、信念は妄執に変わり果てていた。

自覚して尚、やはり捨てる事は出来ない。

(何故か?―それだけが私の生きる意味だからだ。
どうすることも出来ない。死ぬことは恐ろしい……死にたくない。死にたくないし、誰も死なせたくは無い。悪、悪さえこの世に存在しなければ―何故、悪などが存在しているのだろう。
死して地獄に落ちるのが習いというのならば、元より地獄に生まれればいいのだ。
信長!信長め!!地獄に落ちろ!!地獄に―)





「俺が怖いか? 長政―」

足が止まった。
自室の障子戸が開いたままになっている。
声がしなければ、通り過ぎてしまう所だった。
びゅうびゅうと風の吹きすさぶ音が響き、木々がざわめき揺れている音がその中に混じる。
星一つ見えぬ、全くの宵闇。
誰も居ないはずの自室に人影がある。
それは欄干に座り、こちらを見ていた。
長政は目を見開き、立ち尽くした。
大量の砂を飲み下したかのように喉がからからに渇き、上手く唾を飲み込む事が出来ない。
人影は、通常考えられる成人の男の背よりもかなり高く、影には幾つもの棘が突き出ており、異形の影とも取れる。

(異形―そう、異形だ、この男は……その心身、共に)

「舌を失いでもしたか」

声の出ぬ様子を見て、影が笑った。
軽侮の色よりも、純粋に面白がっている気配が強かった。

(落ち着け。とにかく、落ち着くんだ。そうすることで、あの影が消えるかもしれない。
私は今怯え切っている。だから勝手に信長を見ているのかもしれない。
消えないとしても、うろたえていて好転する事象など何も無い―)

「そうだ、気を楽にしろ。
俺がお前を殺すつもりなら、声を掛けずにとっくに撃っているであろうし、そうしなかった理由がお前を少々威かす為だったとして、今更慌てたって遅いという話だからな」

暗闇に徐々に目が慣れて来る。
目を凝らすとあの男が常備している巨大な銃の口が此方を向いている。
握る手の人差し指に少し力が込められれば、次の瞬間長政は粉々に砕け、頭蓋の切れ端も残らないだろう。
そう認識すると、逆に長政の身体から力が抜け、喉に湿りをくれる事が出来た。

「……兄者か」
「答える義理も無い、愚問よな」
「では、兄者なのだな」

長政自身も、もうそれが信長だとわかりきっていたのだが、何度も確認するのを止められなかった。
信長がここに居るわけが無いのだから。
城の最上階だ。何の騒ぎも起こさず此処まで来れる訳がない。
身体を侵食しつつあった悪寒が更に強まる。
間違いない。信長だ。信じがたい事ではあるが、今目の前に信長が居るのだ。
何に反射したのか、影の奥の双眸がほの白く光った。
ばたばたと、信長の背に靡く真紅が風に煽られて鳴る音がやけに耳に纏わりつくような気がした。

「俺は、貴様が見まいとしている世界の裏側だ」

声音は穏やかでからかっているとも、本気とも取り難い。
長政は徐々に自分を取り戻しつつあった。
今度はしっかりと、声を張る。

「そうだ。だから私はあなたを削除する。私の世界に、あなたは居てはいけないんだ。
私の世界は、正義のみで構成するのだから」
「自殺は正義か」

言葉の響きの鋭さに、長政はぎくりと心臓を竦ませた。
大声を上げて激しく否定したかった。
だが、その動揺自体が本心を物語っていると取られる事を恐れ、ぎりぎりで踏みとどまった。
しかし心の中では狂ったように繰り返していた。
違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う

「違う!断じて自殺ではない!貴様を倒すための闘いなんだ。
私は勝つんだ、そう信じている!!」

動揺を抑えようと幾重にも重ねた堤防が決壊し、結局長政は大声で喚いた。
知らず、足が数歩詰め寄ったが影は微動だにせず静かに続けた。

「ただ、自殺は正義か、と聞いただけであろう」
「だが、そういう事だろう!!そう言いたかったんだろうが!!!」
「そう思っているから、そう聞こえる。事実をわかっているんだ、本当は、貴様の頭は」
「たしかに貴様は強いが、私は貴様に従えない、貴様の存在自体、あってはならない事だ、だから削除するんだ。
そこに負ける可能性があろうとも、勝つ可能性を持っていれば、自殺と呼ぶのは不適切だ!!」
「だが全て死に酔うための欺瞞だ」
「違う!!」

長政は悲鳴のような声で絶叫し、腰の剣を抜き放った。
だが、血が昂ぶりすぎていた。頭の中を煮え滾る様な熱が支配し、その場に膝からくず折れた。

「くそ!!殺してやる!!絶対に殺してやる!!
そうすれば、欺瞞で無い事がはっきりするだろう!!
誰が正しくて誰が正しくないか、はっきりさせてやる!!!」
「喚け喚け」

信長が嘲弄の笑い声を上げる。
長政は必死に体を起そうとした。
今、ここで殺してしまうのだ。そうすれば全て終わる。何を恐れる事も無くなる。
それだけで、世界が甦る。長政の中の、正義こそが至上の世界が。

「この場で、貴様一人を殺しはせぬ」

目の前の影がゆっくりと傾ぐ気配があった。

「消えるなら浅井諸共に消えてもらう」
「それは此方の台詞だ!!悪の軍団、一兵たりともこの世に残しはしないぞ」
「正義を犬にくれてやらなかったな」
「何」
「ならば精々後生大事に抱えて逝くことだ。貴様の唯一のもちものが、そのごみ屑なのだから」

言い終わると同時に信長の影が消えた。
欄干から、身を投げた様に見えた。
座っていた姿勢のまま、背から落ちて行ったのだ。
最後に見えたのはやはり背の真紅であった。
この闇の中ではそれは漆黒の巨大な蝙蝠の羽のようだった。
途端、足に感覚を覚え、立ち上がる事が出来た。

「待てぇっ!!!」

部屋の端まで駆けた。
下を覗くが、闇が覗き返してきたのみで、人の影なぞは見当たらなかった。
ただ、風の吹き抜けるごうごうとした音を残して、信長の存在は消えうせていた。

「逃げるのか!!!信長、卑怯だぞ!!!どこへ失せようとも、私は貴様を逃しはしないぞ!!
必ず削除してやる!!貴様が居るから、すべてはおかしくなったんだ!!貴様がいるから私は……!!!」
「長政様!!!」

耳元で必死な様子で名が叫ばれ、長政は、はっとして勢いよく振り向いた。
如何にも心配そうな顔をした部下の一人が長政の腕を取り押さえていた。
汗を流し、顔を上気させているその様子からすると、全く気付いていなかったが、さきから何度も名を呼び続けていたようだ。

「信長だ」
「は、はぁ?長政様、一体何を仰っておられるので」
「信長が居るんだ!!まだこの近くに!!皆に伝えろ、探せと!!!」
「落ち着いてください長政様!!」

長政は肩で息をしながらも少しずつ頭を働かせるよう勤めた。
この、配下の男の表情。心配が悲壮の域に達している。
今、長政が信長が近くに居るから探せと命を出したなどと兵皆に伝えればどうなるかなど、わかりきっていた。
不安が軍全体を覆い、士気が下がり、兵が乱れるだけだ。
長政は両目を瞑り、息を大きく吐いた。
自分でも、流石に認めていた。
先の絶叫の続きは確実に"狂った"の類の言葉だったろう。

「……すまない」
「いえ」
「間者が紛れた、と伝えてくれ。
数刻探して、見つからぬ場合は、見つかったと皆には伝えるんだ」
「それなら、兵の気持ちも落ち着きましょうな」

男は疲れきった顔に笑顔を浮かべた。
大将の理性を取り戻した様に、明らかに安堵している顔だった。
その顔を見ている内に、長政の心に、耐え切れないほどの良心の呵責が襲い来た。

「すまない。私は私の為に戦を起こした。死ななくていい兵が死ぬだろう。お前も死ぬかもな。
だが最早取りやめには出来ない。死んでもらうしかない」

俯いて、長政は震えた。
己の力の無さが心底恨めしかった。
私が守ると、言えればいいものを。
しかし、そんな事を口にすればそれこそ欺瞞だった。
出来もしないことを自己満足の為に口にするような裏切りは到底出来ない。
こんな弱き大将に着いてきてくれるものたちに。

「私のこの所業が所以となり浅井は滅びるかもしれない。
お前達もそれは承知だろう。それでも逃げずに、ここへ居てくれる。
そんなお前達に私は何も出来ない。死んでくれなどと言うだけだ」
「我々は、長政様さえ生きていてくださればそれで良いのですよ」

追従でも媚びでもなくさらりと紡がれたその言葉に、長政は思わず声を荒げた。

「馬鹿を言うな!!そうも好かれていないことなど知っているぞ!!」
「厳しい大将ですからな」
「だったらそう言え、この期に及んで世辞なぞは要らん」
「しかし長政様がお厳しいのは理想ゆえでしょう。
まるで絵空事のような、やたら遠い理想がおありだ」
「正気の沙汰ではないとでも言いたいか」
「故に、長政様を失えば、最早誰も長政様を継ぐ事は出来ないでしょう。
誰もあなたのように、強く、思い続けることは出来ません。
挫け、理想は失われるでしょう
ですが、長政様さえご存命なら、理想は決して失われない」

男は、熱を込めて語り続けた。
予想外の言葉に、目を皿のようにして口を噤んでいる長政の手を強く握った。

「ですから、此度の戦でも、長政様だけはお生き延びなさるよう」

それだけ言うと「話しすぎましたな、まだ間に合うかわかりませんが」と曲者を探す命を伝えに廊下を駆けていった。
長政はじっと己の手のひらに視線を落としたまま、動かなかった。
しかし暫くするとゆっくりとした動きで欄干に向かった。
見下ろすが、やはり何も見えない。
ただ、風が吹いている。

「まだ、そこに居るか」

小さな声だ。
下で兵たちが動き回る声が聞こえたが、その誰にも長政の声は届いていないだろう。

「居ないかもしれないな。だが、居る体で話させてもらう。
私は今もまだ恐れている。勿論、正義のためならこの身など惜しくは無い。
ただ、敗北が恐い。私の敗北は即ち、正義の敗北を意味するからだ。
そんな事は……あってはならない事だ。そんな事が起こってしまうなら、私の今までの生はなんだったのかわからない。
私の今の気持ちは、あんたにはわからないだろう。あんたに、人間の気持ちなどわかるわけがない。
生まれてきた以上、味わうべきなんだ。敗北や、敵わないと知ることの、苦い屈辱や、ままならない焦燥も―
堪らなく苦しい。私はいつも狂ってしまいそうだった。
だけどまだおかしくなる訳にはいかない。あんたに思い知らせないといけないんだからな」











<了>



次こそ、姉川です。やっと書ける!!
英雄外伝が出てしまった今、何を書いてもお笑い種ですが……。
外伝で義兄弟燃えの人が増えないかな、と他力本願な今の心境です。
まあ、始めてしまったものは最後まで書かないとね。
うちの長政も頑張っているので、宜しかったら是非お付き合いください。
それでは、読んで下さってありがとうございました。お疲れ様です!!