「長政め」
短く吐き出された義弟の名には、信長の苛立ちの気配が濃厚に感じられた。
知らせを受けて以来、人を払い、如何にもくさくさした様子で胡坐をかいたまま机を睨みつけている。
濃姫がその背後で声を掛けようか掛けまいか逡巡していると、不意に低い唸り声を発してごろ、と寝転がった。
「くそ、女、膝を貸せ」
「はい」
言われるままに形のいい膝を揃えると、そっと良人の頭の下に滑り込ませた。
傍から見れば甘く語らっているようにも見えようが、当の男は未だ憤懣やるかたない様子でじっと黙り込んでいるため、濃姫としては、居辛くて堪らなかった。
「あの、お独りになりたければ外へと参りますが」
「独りになりたくて膝を貸せなどと言う様では俺もいよいよの大キチガイだな。
黙ってじっとしていろ、女に触れてでもいないと誰ぞ絞め殺しそうだ」
冗談とも本気ともつかないが、口調が後者の可能性を臭わせる。
濃姫は少しでも心の慰めになれば良いと、米神辺りを細い指でそっと撫ぜた。
信長の白い額にわかりやすく、薄青い血管が走っているのが見える。
「心中、お察しいたします」
「豊臣とやり合おうって時だぞ。それが武田もいる本願寺もいる上杉も怪しい。そこへ浅井だ。また面倒が増えた」
「それに、お市さまのことも」
「ふん、貴様の”お察し”は万時そんな具合よな」
「上様」
「何だ」
信長の馬鹿にした調子の笑い方にも動じず、濃姫は静かに声を落とした。
「二人をお救いになることも、出来ますわよね」
声も出さず、信長がぎょろっと濃姫を睨み付ける。
馬鹿を言うくらいなら黙っていろ、と目が語っていた。
濃姫は心の奥が動じるのを自覚したが、これを恐れていれば、信長に声を掛ける事など出来ない。
「まだ、若いのです。私達の義弟夫婦ではありませんか」
「降伏でも勧めろというのか」
「はい」
「はいじゃないだろ」
長政の葛藤と決断を知れば濃姫も和睦の道など無いと覚悟を決めた事だろう。
だが、長政の裏切りは信長以外の織田側の人間にとっては青天の霹靂以外の何ものでもなかった。
長政の狂気に触れていたのは信長だけだった。
だが信長としては、ここで先手を打って長政を潰しに掛かるよりは、ぎりぎりまでの保留を選びたかった。
豊臣との戦が予断を許さない局面を迎えており、形として同盟が存在している浅井との関係をこちらから壊し、明らかな敵勢力を一つ増やすよりは、冷戦状態で凍結しておきたかった。
だが、長政の心の蝕まれる速度が余りにも早かったのだ。
今頃本人は、戦を決定した事で吹っ切れて、あるいは正気を得たような気持ちになっているかもしれない。
だが、とんだ間違いだ。
懊悩の末、負け戦を選んだと言うだけの事だ。
血迷った、と言うしか表す言葉が無い。
信長にとっては長政の正義など、これ以上無いほど下らない執着にしか思えなかった。
そんな一片の価値も無い妄念如きで、この織田信長を敵に回すのか。
事態が起こっただけでも耐えがたい憤怒を覚えるというのに、あろうことか煩わされている。
本来なら即座に兵を向け、虫けら以下の惨めさを味あわせ屠ってやりたいところだが、多くの敵に囲まれ、それもまま成らない。
最早段階は許す許さないではなかった。
一秒でも早く殺す方法を模索しているだけだ。
「上様のお考えをきちんとお話になれば、長政の背信の気持ちも収まりましょう」
「正義正義と喚く小僧の守りをしろというのか。下らん!」
「ですが、現実として今、兵を向こうに裂く余裕が十分にあるとも言えませんわ」
「兵なぞ寡兵で構わぬ」
「浅井はあれで強兵ですよ、最低でも同数は向けないと難しいかと存じますが」
「余が出る」
「そんな」
濃姫は二の句が次げず、震える下唇を軽く噛んだ。
そうも、怒りが深いというのか。
それとも、ただ、方策として最善であるというだけなのだろうか。
「ではこちらは」
「貴様を置いていく」
「……はい」
一時的にとはいえ織田を任されるという責に濃姫は痛いくらいの緊張を覚えた。
光栄ではある。何一つ間違いを犯すつもりもない。
だが信長が居ないとなると、隙と捉える他の軍勢が動かない筈は無い。
黙りこくった濃姫に目も合わせないまま信長が言う。
「そう構えるな。半日もあれば川面を彼奴等の血に染めてやれるわ」
「ご自分の妹君と、義弟の血でですか」
「…まだ言うか、貴様」
信長は明らかに怒りの篭った低い声で唸った。
ただでさえ苛立っている信長に、異を唱える口を利くなど、本来なら決してするべき行為ではない。
自分でも何をしているのかわからず、濃姫は震えを押さえ込み、信長の目を覗き込んだ。
長政の破滅がそこに映っている。
もう変えようの無い事実なのだ。
「死にたがりを殺してやるんだ、感謝されても良いぐらいだ」
信長が喉の奥で暗い笑い声をあげた。
濃姫が一つ、ため息を漏らす。
「……たったひとりのご血縁ですのに」
「まむしが聞いて呆れる女よ。父を喰うと意気込んでいたものだったがな」
信長が頭の位置を少しずらし、濃姫を見上げた。
濃姫は夫に、にこり、と美しい笑みを零し落とした。
「そして上総介様は、助けて下さろうと致しましたね。娘の見捨てた、その父を」
「使い道があると見たからだ。無ければ生かす意味などない」
どうあっても、考えを変える事は無い様だった。
濃姫はまた俯く。
まだ織田に居た頃の、市の姿を思い出す。
はっきりと群を抜く美貌を持ちながら、終始哀しげに俯いてばかりいる女性だった。
いつも信長を意識し、怯えているみたいだった。
そして濃姫のことを疎んじていた。
魔王と知りつつ、忠実に付き従う姿を軽蔑しているようだった。
彼女は、嫁いで解き放たれることが出来たのだろうか。
夫と、幸せになれたのだろうか。
浅井夫婦の内情は知れないが、ただ、今はその夫・長政が信長に憑かれていた。
形は違えど、市、長政夫婦両人共、信長が壊したのだ。
それも、意図するわけでもなく、ただ、その存在が二人を壊した。
信長を愛している。
例え、男がどれだけこの世に忌まわしい傷を刻もうとも。
その性根が悪そのものであろうとも。
どれだけの業を背負うことも恐れては居ない。
だが、長政と市。
彼らにこれ以上、哀しい目を見て欲しくなかった。
戦場に立ち、悪魔を愛しながら、何故か濃姫はどうしても、情を捨てることも麻痺させることも出来ない。
「……上総介様は、お市様を特別気にかけていらっしゃるのだと思っていましたのに」
「何」
「お二人はその昔、とても仲がよろしかったと、そう聞いたことが」
「はっ」
信長は濃姫の言葉を笑い飛ばした。
怒りすら覚えているような調子だった。
濃姫は微かに体を硬くした。
「貴様、余が他の血縁の末路を知らんわけではないだろう。
余に逆らった、愚かな血の塊共が」
「……それは」
「奴らは血を流したがっていた。淘汰されたがっていた。そしてその様になった。
織田の血の内、俺以外は捨石だったのよ。だから奴らの本能に自殺が根を生やした。
つまりはそういうことだ。奴らも、この度は市も、知らず俺の為に死にたがっている」
笑い声。明確な異常性。
だがそれきり、濃姫が何を言おうと、不機嫌そうな唸り声を洩らすのみであった。
声は届かない。信長の心は最早、姉川を越えていた。
彼らを滅して、その次に思考は飛んでいた。
信長は一度終わらせた事を二度と振り返らない。
切り捨てたものを、再び拾い上げはしない。
終わってしまったのだ。
濃姫は己が膝の上の、夫の頭を見つめた。
この中に、一体何が詰まっているのだろうか。
一体、世界が彼にはどう見えているのか。
実の妹すら、哀れとも愛しいとも思えない世界。
今更、幸せなど望みはしないが、無性に悲しかった。
<了>
信長様は思想が無くて思考だけがある人なので(この表現なかなか的確だな)、信長様が口を開く話を書くと大概失敗します。
今回も書き直したい気持ちでいっぱいです。でも、何度書いたって納得行く気がしないからどうしようもないです。(と言われても)
あとタイトルの投げやり具合が凄い。無題にすりゃいいのに。
というか、ぐだぐだ続いてすみません。お付き合いくださっている方、もしいらっしゃるなら私の神様です。
ここまで読んで下さって有難うございました、お疲れ様です!