生まれ付き巨大な体躯で、力は誰に負けた事もない。
だが、手のひら一つとっても規格外な大きさを持っているため、繊細な仕事は不得手だった。
目の前のやせ細った女の、髪を梳いてやる事も出来ない。
下手に触れると苦痛しか与えられないだろう。
彼女の前では、これだけの力を持っていても、この上ない無力感に打ちのめされる。
何よりいけないことは、彼女の一番の痛みは、この秀吉の存在自体であるということだ。
秀吉は耐えかねて眉間に皺を寄せた。
女は、それを目聡く見つけ、病苦も見せない溶けるような優しい笑みを浮かべた。
「どうなさったの? 秀吉様」
「ねね」
その様な顔をするな。我を罵れ。
堪らずそう言いたかった。
目の前で、愛想のない顔を晒すしか能のない男を。
だがそんなことを言っても余計に困らせるだけなのはわかっていた。
ただでさえ、彼女は彼女自身を疎んじ始めている。
己が、秀吉の枷なのだと。
「医者を……医者を、呼んでこよう」
狭い家である。
秀吉の、天井に頭をぶつけない様にと気をつけながら立ち上がる姿に、ねねはくすり、と笑いを漏らした。
あと、どれだけもつのだろうか。
この腐った国を変える。
そう誓った日から、悲しみに流す涙など、無くした筈であった。
だが、その国をこの愛した女に見せる事は、きっと適わないのだろう。
そう思うと、どうしても目頭が熱くなった。
「泣かないで、秀吉様」
「馬鹿を言え。何を泣くものか、」
「ねねは、幸せです。今までだって、ずっと幸せでしたとも」
やめろ、そんな風に、過ぎ去った日の話をしないでくれ
秀吉は声に出さずに絶叫し、家屋を後にした。
もって半月。
信じられない言葉を医者から浴びせられ、秀吉は悄然とした顔つきで座り込んでいた。
ああして笑っているのに。ああも健気に。
だが、数月前にもあと半月、と言われたではないか。
そうして騙し騙し、日を重ねていく事が、もしかしたら出来るのでは。
胃の腑が絶望に冷え切っているのがわかっていて、脳だけでどうにか光明を見出そうと足掻く。
しかし何と小さな肝か。
この国を救いたいなどと、大言を口では吐いておいて、たった一人の女の死に心底ビクついている。
彼女がもし―はっきりとした言葉にもしたくないが、もし、その日が来たなら、我は我のままいられるのだろうか。
踏み越え、進めるのだろうか。
そんな情けのない疑問すら、はっきりと答えを断じれない。
何と言うザマだ、これは。
「本当に、顔に出やすいタチだね君は」
背後から穏やかな男の声がした。
振り向けば半兵衛が特に表情も作らず立っていた。
「隣、良いだろう? 」
「うむ」
すとん、と細身の体を秀吉の横に落ち着ける。
華奢な体躯でなよやかな印象のある半兵衛と、天を突くような大男の秀吉は、数年来の親友同士である。
本人らは非常に馬が合い、理想を語り合う仲なのだが、その体格から何からのちぐはぐぶりから、ハタから見れば何とも不思議な組み合わせであった。
「ここに居るんだと思ったよ」
「家の方にも寄ったのか」
「ねね君、良さそうじゃないか」
「今日の所はな。だが」
そこで一旦秀吉は言葉を詰まらせた。
半兵衛は急かす訳でもなく、注意深く耳を傾けて待っている。
秀吉がいかにも苦しげに息を吐いた。
「もって、半年だそうだ」
半兵衛は形の良い眉を微かに顰めた。
秀吉がこの場に来ているというのは、何か良くない兆候に違いないとは思っていた。
町の外れの雑木林を少し抜けると、開けた丘陵に出る。
周囲の景色が一望できるこの場所は、昔は希望を語る場所としてふさわしい場所だった。
ねねも連れ立ってきた事もあった。
だが今は秀吉は専ら遣り切れない悲しみを抱えてここに来る。
「僕にはそうは見えないけどな」
「……すまん、半兵衛」
「見たまま、思ったままを言ってるだけさ」
半兵衛は秀吉の方に向き直り、己より数周りは太い腕に触れた。
震えているのではないかと思ったのだが、それは思い過ごしであった。
ごつごつした、大岩と石ころを組み合わせて作ったような拳をぐっと固く握り締めている。
「ねえ、秀吉。あまり根を詰めてはいけないよ。
それでは君だって参ってしまうし、ねね君にだって余計な心配をかけてしまうだろうさ」
「そうだな。これではいかん」
秀吉は辛うじて苦笑を漏らし、手のひらを開き、また握るのをなんどか繰り返した。
そうしておいて、手のひらを厳しい目でじっと見つめる。
「半兵衛。我はどちらを選べば良いのかわからない。
出来ることならばねねの傍を片時も離れずに居たい。
だがそうする間にも国は刻一刻、取り返しのつかない混沌へと走り、我を待ってはくれないのだ」
半兵衛は無言で友の顔をじっと見詰めた後、ふ、と視線を眼前の光景へと泳がせた。
「慶次君は、ねね君を取れ、と言うのだろう」
「ああ」
慶次もまた、ねねの身を案じて足繁くねねの家へ足を運んでいた。
どうにか、何かねねを元気付けるものはないかと、桃やらみかんやらを両手に抱えてひょこっと顔を出すのだ。
(なあ、秀吉。国だ何だ、ってのだって大事なのはわかるよ。お前ならでっかい事ができそうだしさ。
でも、確かに国だってかけがえのないものだけど、ねねだってたった一人なんだぜ?
何だったら俺が留守をあずかるぜ!!……なんて言えればいいんだけどさ。
俺じゃ駄目なんだ。傍に居なきゃなんないのはお前なんだよ。
お前じゃなくっちゃ、駄目なんだ)
勝手に捲くし立てておいて最後に寂しそうに笑った慶次の顔が脳裏に蘇る。
彼は何時だって、秀吉をねねの元に引きとめようと必死だった。
「僕は、どちらとも言えないよ。
君と共に乱世を駆けたい気持ちはずっと変わらない。でも、そんな顔をしている君に僕と来てくれ、なんて言えないよ。
それに、ねね君と君はまるで生まれる前から一組のつがいだったみたいにぴったりだ。
引き剥がせば、何かがおかしくなってしまうような気がするよ」
日が落ち始め、周囲が徐々に暗くなっていく。
二人は言葉も無くぼんやりとその場を動かなかった。
「ねねは、我に起って欲しいのだ」
秀吉がポツリと言葉を漏らした。
「あやつは我を傍に置くのを望んでいない。己の身が我の動きを封じる鎖と思っているのだ」
半兵衛はただ悲しそうな顔をして聞いていた。
皆が皆、己の無力を嘆いている。
お互いを深く愛しているのに、誰が誰の力になることも出来ない。
(夢を見るのって、そんなに罰当たりな事なのかな)
神なんてものが居るのだとしたら、悪態でも吐きたい気分だった。
家に帰ると、ねねが半身を起こしてこちらを見ていた。
「秀吉様」
「馬鹿、寝ていろ。何をしているのだ」
「ふふふ。とても具合がいいのです。どうしたのかしら」
鈴が転がるような笑い声。
昔はそれほど心の休まる音色も無かったものだが、秀吉はまた胸を痛めた。
「無理を、するんじゃない」
「いえ、無理ではなく本当に……お薬が効いたのかもしれませんね」
「それなら良いが……」
大きく息を吐いて傍らに座る。
相変わらずねねが笑っているので、秀吉も思わず笑みを漏らした。
「ねえ、秀吉様」
「何だ」
「お手々を、貸してくださいな」
「ん? こうか」
片手を突き出すと、ねねが両手で抱えるようにして、小さな頭を擦り付けた。
「私、この手が本当に好き……。何でも出来てしまいそうで」
「そうでもないぞ、色々と難儀する」
「難儀な事は、ねねがやりますわ」
「お前の手は小さいからな」
低く、厳めしい秀吉の声が、こうも優しく響くのは彼女の前でだけだった。
まるで別種の生き物のかのように体格を違える小さな女を、いかにもいとおしそうに見下ろしていた。
ねねも目を閉じてうっとりと心地良さそうに頭をもたせかけていた。
二人とも、この時ばかりは病苦の存在を忘れていた。
「この、何でも出来るおおきな手で、きっと国をお救い下さいませね」
「無論だ。きっとお前に見せる。苦しみの無い、いかなる外敵にも怖じない、桜の花の咲き誇る国を」
薬の効き目ならば、永遠に続いていて欲しい。
秀吉は強くそう願った。
ねねが寝てしまうと、そっと頭を枕に戻し、布団をかける。
寝息がまた、彼の心を悲しくさせた。
それから数月の間、奇跡でも起きたかのようにねねの容態は落ち着いていた。
それがある日、突如として急変した。
秀吉が水菓子でも食わせてやろうと買って帰ると自らの吐いた血の海に倒れていた。
秀吉は取り落とした林檎達がごろごろと外へ転がり出るのにも気付かず、ねねの元に駆け寄った。
「ねねっ!!」
ねねは目を開けることもできないまま、苦しそうに眉を顰めてぜいぜいと大きく喘いでいた。
抱き起こしたい衝動を感じたが、下手に動かすのは危険だ。
秀吉は悲痛な思いに駆られ、半狂乱になりそうな自分を必死に押さえつけた。
「秀吉様……」
「待っていろ!!今、医者を……」
動こうとして微かな抵抗を感じ、見降ろす。
ねねの血に染まった白い、細い手が、秀吉の手を握っていた。
「駄目……」
「ねね……?」
「お願…い……いかないで……傍に、い、て」
秀吉は突き上げるような悲しみに喉を塞がれそうになったが、首を振りながら叫ぶように声を出した。
「離せ、ねね!頼む!!医者を、医者を呼ばせてくれ!!」
ねねが目を開け、まっすぐ秀吉を見た。
薄っすらと目じりに涙を滲ませ、微笑む。
「かえる、までに……死んで、しまうわ……。ねねは、もう…だめです」
「そんな事は無い!!きっと治る!!!頼む!!!ねね!!!!」
秀吉は厳つい顔からぼろぼろと涙を零しながら懇願の声を上げ続けた。
だが、ねねの手を振り払う事はとても出来ない。
「秀吉っ、大変なんだ!!」
後ろから、がらりととの開く音と同時に半兵衛の声がした。
「……あ」
踏み入るまでも無く状況を察し、半兵衛の顔も瞬時に蒼白になった。
「半兵衛か、良い所へ!!頼む、医者を」
「待って……」
ねねが絶え絶えの息の中から必死に声を掛けた。
「半兵衛様は……どんな、ごようじでいらしたの…?」
「なんでもないんだ。気にしないでくれ、お医者を呼んでくるよ」
「駄目……お願い……。お願いです……言って……」
半兵衛は困ったようにその場で立ち尽くした。
「秀吉」
「…言ってくれ、半兵衛」
半兵衛はそれでも暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に口を開いた。
「信長が、兵を動かしたんだ」
「何っ!?」
「ついに美濃を盗る心積もりらしいんだ。
情報を遮断して、今回の奇襲を成らせたみたいで、今付近の町村を焼き払いながら此方へ来ている」
「……信長っっ!!!」
秀吉は血を吐くような思いでその名を叫んだ。
何も、何もこの様な時に。
あの男の呼ぶ絶望が、我をも飲み込まんとしているのか。
怒りと実際に身体の痛みとなるほどの大きな悲しみに秀吉は一瞬我を忘れた。
だが、次の瞬間我に返る。
ねねの手が、離れたのだ。
「いって」
見ると、ねねが変わらぬ微笑を湛えたまま、秀吉を見ていた。
”行って”と。確かに彼女が、そう言ったようだった。
「ねね、何を、馬鹿な」
「お願いです。ねねの、最後のお願い……」
「今お前は、傍にいろと言ったではないか。傍に、居る。お前を離れやしない」
「駄目。お願い。やくそく、したはずです。
秀吉様の……国を……。さくらの国を、見せてくださると」
秀吉が涙に塗れ、真っ赤になっている目を見開いた。
だが、新たに流れる涙はもう無い。
これを最後に、彼の目を涙が流れる事は、金輪際無くなった。
「行くぞ、半兵衛」
「秀吉」
半兵衛が驚いた声を出すのも待たず、秀吉は決然と外へと歩み出た。
「半兵衛様」
呼ばれるが、半兵衛は応じる言葉を持たなかった。
「ありがとう」
「僕は罪を犯した。誰が何と言おうとね。取り返しの付かない罪だ。
このことは誓って忘れない。でも……きっと……」
続きを半兵衛は口にしなかった。
ただ悲しげに瞼を伏せると、彼も秀吉に続いた。
織田軍と斉藤の軍の戦闘は熾烈を極めた。
中でも敵方総大将の織田信長の力は圧倒的で、云百人の兵士達が其の男一人に因り屠られた。
生半可な武勇では敵うべくも無く、唯一対抗できたのが、秀吉だった。
半兵衛の佑助もあり、織田軍を一時撤退せしめた彼は、その友人と共に、一躍勇名を響かせた。
彼らの夢の、確かな足掛かりがそこに出来たのである。
「秀吉ぃいいいっ!!!」
凱旋した秀吉を待っていたのは、泣き腫らした目に憤怒の炎を滾らせた慶次の泣き叫ぶ声だった。
「何だ、慶次か」
「どうしてッ……!!何でだよ!? 何でねねの傍についてやらなかった!!」
今にも掴みかからんばかりの勢いで秀吉に迫る慶次を秀吉は冷めた眼で一瞥すると
「死んだのか」
と、寒気のするほど表情の無い声で言った。
「お前は、傍に居たのだな」
「ああっ!!居たよ!!でも、何度も言ったじゃねぇか!!お前じゃないと……駄目なんだってっ!!
それを何で……っっ!!」
悲しみも動揺も見せない秀吉に、慶次は最早紡ぐ言葉も失せ、ぶるぶると身体を震わせていたが暫くすると小さな声で「来いよ」と言った。
「取り敢えず、会ってやれよ。……もう遅いけど……」
そう言って鼻を啜り上げる。
秀吉は慶次と連れ立って、もう誰も待っていない家へと帰った。
ねねは血を綺麗に拭かれ、きちんとした姿勢で、信じられないほど安らかな顔で眠っているような様子で布団に横たえられていた。
ただ、頬は蝋のように白く、やはり死んだのだとわかる。
秀吉は其の枕元にじいっと座っていたが、ふと視界の端に違和感を覚え、目を部屋の片隅に目を走らせた。
そして信じがたいものを目にする。
畳のへりと、壁の間に、壁が朽ちて出来た僅かな隙間があり、そこに薬が詰められていた。
茶色い粉の薬はともすれば土の汚れの様で、迂闊にもついぞ気が付かなかった。
だが、あれは薬だ。ねねが、捨てたのだ。
(そうだ、医者は半月と言ったんだ。それを―)
世界がそっくり逆さまになったような眩暈と吐き気。
気が遠くなりそうなほどの、己への失望。
秀吉は静かに瞼を閉じた。
「慶次」
「……何だよ」
「ねねは、我が殺したのだ」
「……は? お前何言って…」
慶次は信じられないといった風にぽかんと動きを止めた。
「あの女は、我が殺した」
「馬鹿っ!!そんな嘘、こんな事でそんな嘘、許さねぇぞ!!」
「我とてこんな嘘は吐かん。本当のことだ」
秀吉自身の確信もあって、声音は多分に説得力を含んで響いた。
慶次は目を見開いて秀吉の顔を凝視したかと思うと、飛び出すように外へ走り出た。
それきり慶次は戻らず、彼らの友情は終わりを告げた。
(我に弔う資格は無いだろう。だが、この女他に身寄りも無い。
あの場所に埋めてやろう。春には桜の見える、あの場所に)
秀吉はねねを抱き上げた。
軽くなった、と思った。
<了>