かつて、陸議という子どもがいた。

江東の豪族の枝葉に生まれたが、当時袁術配下であった孫策に祖父を殺され、父は既に亡かったため宗家に預けられた。陸家の子のうちでは陸議が最も年長であったため、長じて当主となった。後に孫策が倒れ弟の孫権が跡を継ぐと、陸議は才覚を請われ、召しだされて出仕した。そのとき、陸議は陸遜と改名した。遜には「孫」という字が含まれ、また、「へりくだる」という意味がある。

陸遜はそのことについて感慨を持たない。「遜」の字なら問題がないだろうと決めた。

ただ、自分はもう子どもではなくなったのだと、思っただけだ。

 

 しゃん。

 陸遜は酒宴にいた。都督である周瑜は定期的に宴を催すことを決めていた。主君、孫権の酒好によっている。孫権は、呑みすぎて失敗をしたこともあるが、ふだん神経質なところのあるこの若い主君には、羽目を外すことも必要なのだと陸遜は理解し、またそれを奨励している周瑜を改めて尊敬している。

 しゃん。

 剣舞を披露しているのは甘寧、字を興覇という男だ。若い時分から無頼を集めて頭目となり、部下たちには鈴をつけさせていたので鈴甘寧いう通称がある、らしい。らしい、というのは甘寧がつい先ごろ、呉に自ら降った武将だからだ。

「どう見ます」

 小さく声をかけてきたのは、周瑜だった。

 陸遜は杯をつつむ手のひらをそっと腿に置き、返す。

「興覇殿が殿に上奏した、『曹操に先を取られぬうちに、まず黄祖を破り、次いで西方の楚関を占領する』。やがては都督に描いておられる、荊州を獲り蜀を得、北魏に対抗する策に通じると考えます」

周瑜は息をはいた。

「たやすく見抜かれるようでは、私も軍師失格かな」

「われらが、志をひとつにしているということです。都督はわかっておられるくせに、たまに自嘲をおっしゃられる」

 陸遜はむくれた。拗ねさせたかったのではないよ、と周瑜は苦笑したが、すぐに甘寧の舞に視線をうつした。紫がかって見えるほど静かな眼差しが、炯炯と光る。

「甘興覇殿は、必要だ。しかし――、」

「――凌公績、参る!」

凌公績、名を統。まだ十九歳の若い武官だ。

凌統は短剣を抜きながら立ち上がった。ちょうど腕を伸ばしていた甘寧の剣と短剣がぶつかり合い、

火花が散った。

それは、凌統の眼からも溢れていた。

甘寧は学問に触れてからは前非を悔い、劉表の軍に加わった。劉表とともに呉に降りたかったのだが、劉表には処世術がなかったため見切りをつけたという。部下とともに呉を目指し、夏口を通り抜けようとしたところ、そこには劉表の配下黄祖がいたため、やむをえず黄祖についた。

「宴に帯刀は禁止しているはずですね」

「隠し持っていたのか、公績」

 しゃん。――きいん!

周瑜がめずらしく、焦った口調で呟いた。

「そのようです。公績は本気で打っています」

五年前の興平八年(二〇三年)、孫権は、孫家を一代で起こした父、孫堅の仇であった黄祖を討った。甘寧はそのとき黄祖に仕えていたため、呉の武将凌操を射殺した。

 孫権は凌操が国事ために死んだことを哀れみ、父の指揮権をわずか十四歳であった息子、凌統にそのまま移した。凌統はそれに応えてみせたため、見所のある若者と、周瑜と陸遜は見ている。

 甘寧がと凌統の父の仇であろうとも、過去を忘れろとは言えずとも、どちらも孫呉の未来には不可欠だ。

――しゃん、きいん!

鈴の音と剣の衝突する音が、重なりあう。

「そこまで! 」

 わずかな間に、身を割り込ませたのは呂蒙だった。周瑜が安堵の嘆息をした後、やわらかく微笑んで孫権を見上げた。

「二人とも見事な舞でしたが、伯言にもご覧いただきたい剣舞があるそうです。そちらを観ることにいたしませんか? 」

「うむ、」

 孫権が肯く。甘寧と凌統の熱に孫権もまた気づき、危うんでいたらしかった。

「おれも加わろう。戟でいいか」

 呂蒙の言葉に、陸遜は肯く。

呂蒙は戟を、陸遜は双剣を握り、また舞いがはじまった。

小さく、呂蒙が訊ねてきた。

「どうした伯言、つまらなそうな顔をしているぞ」

「そうですか? 」

 陸遜は首をひねる。ひねった瞬間、思い至った。

「わたしはきっと、私怨を覚えている公績がうらやましいのです」

 苦笑する。

 呂蒙が眼をすがめた。

「議、」

 と、懐かしい名を、呟かれたのがかすかに聞こえた。

 

 かつて、陸議という名の子どもがいた。

 それを、呂子明殿さえ知っておいてくれればいい、と、陸遜は思った。