市を初めて眼にした日、長政はその美しさに目を奪われ、息を呑んだ。
艶やかに流れる緑の黒髪に、白い肌。形のいい目鼻立ち。
少し憂いを含んだような表情もその美しさを却って際立たせているようだった。
戦国一の美女であると、巷で噂になるのも、むべなるかなと思わされる佇まいである。
「どうだ、気に召されたか」
傍らに立つ信長に声を掛けられはっと我に返る。
彼女の血を分けた兄であるはずの男は、この婚姻をまるで感慨深いものと考えていないようだ。
一つの手続きをなしているだけという風な口振りであった。
「あ、う…そ、それは、勿論、私には勿体無いほどの女子でございます」
長政は多少うろたえながらも、平生の生真面目さを取り戻して、きちりと折り目正しく礼をした。
「では市、下がれ。浅井殿と話がある」
信長が市に顔を向け、語りかけるが、市は俯いたままでそれを聞いていた。顔も向けぬまま、微かにこくり、と頷く。
変な兄妹だ、と長政は思った。
ちっとも似ていない。兄は機械のようで、妹は人形のようだ。
眼も兄は常に何かを睨め付けている様な鋭い眼であるが、妹はひたすらに虚ろで、床か、その少し上の空気あたりにぼんやりと据えられており、対照的である。
きろり、と鋭い両眼が長政を捉えた。
「よろしいか」
長政はまた微かにうろたえ、目を見開かせた。
「…は、はい。よし、ご案内しろ」
抱えの侍女に命令すると、市はそのまま静かに部屋を去っていった。
お仕舞いまで、夫になる男である長政をちらりとも見ようとはしなかった。
―あれではまるで人身御供にうちに来るようだ
事実その様な事ではあるが、戦国の世、政略による結婚は常のものである。
大きな家の女子ならば、誰もが幼き頃からその身の立場を知り、そうと構えているものだ。
市のように美しければ格別に、大きな力を持つ道具である。それを前提に、育って来たに違いない。
それにしては過ぎた、悲愴の風合いであった。
(人見知りか緊張による、今だけのものであればいいが)
気に掛かる事ではあったが、何時までも思考を馳せてはいられない。
目の前に信長が立ち、こちらを見ている。
「すまなかった、信長殿―いや、もはや兄者とお呼びいたすべきか。どうぞ、御掛け下され―」
言い終わるより早く信長がどっかと胡坐をかき座り込んだ。
長政もその正面に腰を据える。
「この度の同盟、浅井家の得るものは計り知れず、その上婚礼の取り計らいまで、お礼を申し上げる言葉もありませぬ」
「良い。織田の得るものもまた大きい」
信長の口振りは穏やかなものであったが、それでも全身より放たれる威圧の感に長政は内心冷や汗たらたらであった。
彼の武勇は遠くに聞いていたが、己の武勇や機を見る力にも多少の自負はあった。
それでも実際こうして対峙すると、並べて比較するも自惚れが過ぎたことであったのかと、卑屈な念に囚われずにはおれない。
同盟を組むに置いて浅井内では、最初、否定的な意見が多く、賛成派と反対派が激しく対立した。
織田は確かに力を持っていたし、同盟の内容は浅井にかなり有利なものであった。
だが、反対派からすると、織田はやり方も強引であるし、浅井家の立場を尊重してもらえるとは思えない。
良い様に利用されるだけである、と。
その状況で織田から提案されたのが、信長の妹と長政の婚姻の話であった。
利用する、しないの関係ではなく、縁者としての協力関係を築こう、という意図の含まれた申し出である。
勿論、表向きの態度を形作るためだけの手段だろう。
この裏切りや争いが常の乱世に於いて特に魔王等という呼び名が付くほどの男である。
血縁すら特別視せず、逆らうものには等しく容赦はしない。
長政が妹婿になった所で、特別な恩情が掛けられる訳が無い、と反対派は尚も抗言した。
そこで長政が同盟賛成の態度を取った事は、賛成派にすら予想外の事であった。
長政は、人の目には病的に映るほどに極端な潔癖症で、世間で魔王と呼ばれている信長の下に属するなどという事に甘んじるはずが無い、と誰もがそう考えていた。
だが長政の考えは違っていた。
―織田信長は、この乱世、為すべき事を為しているだけだ
群雄割拠、日本は幾つもの勢力によりばらばらに分かたれ、争いは避けられない。
信長は強い。力に屈せず、色に溺れず、金に媚びず、官位を欲さない。
ならば、何が悪であるのか。乱世男はかくあるべきだ。
私にあれほどの力があれば、もっと迅速に私の思う正義を為せるのに―
そう思うと無性に歯がゆく、己の無力が惜しまれた。
その力と組む事が出来るならば、その無力も補われると思った。
浅井は織田に膝を折るのではない。
あの力を己の正義を貫くため浅井に取り入れると思えばよい。
仮に織田が悪を為すようならば、同盟は放棄する。そうなれば織田とて上洛が不可能になる。
どの道浅井は決して悪に加担はしないのだ。
「盟約、これで相違ないか」
問われて、長政は信長が指している紙の文字を目で追った。
「は、ありません」
キッ、と長政は顔を上げ、信長に鋭く真っ直ぐな視線を投げかけた。
信長がそれを受けて、すっと切れ長の目を更に細める。
「如何した」
「兄者。この先幾ら掛かろうとも、織田、浅井両家の力を持って、必ずや世を正義の元に平らげましょうぞ」
長政の言葉に、信長は思わず、分からぬ程度に眉を顰めた。
心に無い奇麗事にしろ、こうも臆面なく並べ立てられる神経を持つものはそうは居ない。
信長は呆れたが、長政は至って真面目に、本心から物事を言っていた。
長政の挑むような視線を、信長は暫く眠そうに見返していたが、暫くして
「では、頼んだ」
と言って立ち上がった。
「あ、お送りいたそう」
「いや、良い」
信長が肩越しに振り返り、片頬を吊り上げ、にいっと笑った。
そしてそのまま、すたすたと歩いていく。
外に待たせていた従者達が慌ててその背を追った。
―これで同盟はなった―
長政は突然終わった、という感慨に襲われ、凝然とその場にただ、立ち尽くした。
安堵と、これで良かったのかという、未だ付きまとう不安。しかしもう戻れはしないのだ。
この同盟は、浅井の命運を種にした、大きな賭けだった。
どう出るか。結果はこれからだ。
浅井の中での、一つの時代の始まりだ。
長政は逸り震える心を抑えながら、ふと、もう一つの変化を思い出した。
そういえば、妻ができたのだ。
どうしているだろうか途端に気になり、部屋の前に行く。
そして異様な光景を見て目を見開いた。
市の居る部屋の前に、若い家臣たちが幾人も集まっている。
耳を欹てていたのか、中を窺っていたのかは分からない。
傍まで来ている長政に気付きもしてい無いということが何より異常だった。
「何をしている」
長政が遅まきながら怒りを覚え、声を荒げると、やっとこちらを向き、ぎくりとした顔を浮かべる。
「な、長政様」
「申し訳ありません!!わ、我らはその、ただ」
「もう良い。これ以上ここで問答しても私が恥をかくだけだ。次は無いと思い、どこへでも失せろ」
長政が不機嫌に申し付けると、家臣たちは小さくなって去っていった。
長政は憤慨を抑えきれない。
何だ、あいつらは。顔は覚えたぞ。
小さな子供でもあるまいに、花嫁を覗き見するなど考えられん。
憤ったままやや乱暴に戸を引くと、市がこちらに背を向けて座っていた。
「おい、真っ暗ではないか。灯くらい点けろ」
そう言って燭台に火をいれると、市が長政に振り向いた。
顔は相変わらず人形のように生気が無い。
(―泣いていたな)
そう思い、ぐっと長政は喉を詰まらせた。
表情は無いが、目の端が微かに紅く染まり、それがまた危うさの中に、壮絶な美しさを醸していた。
何を泣く、と聞きたかったが言葉には出来なかった。
暫くの沈黙の後、やっとのことで口を開く。
「あー…、知らぬところに独りでは、不安もあろう。不本意でもあるかも知れん…だが決して悪いようにはしない。その身をもって浅井と織田の架け橋となってくれた事、深く感謝している」
微かに下方に視線をずらしたまま綿々と言葉を綴る長政を、市はじっと見ていた。
見られているのは分かっていたが、居心地が悪く、長政は顔を上げられない。
「すぐにとは言わないが、そなたも最早浅井の人間であるのだから、こちらの事も学び、慣れるように」
何時までも落ち込んでいないで元気になる様、と言いたかった。
だが性分からどうしても説教めいてしまう。
泣いている女に掛ける言葉か、と長政は我ながら舌打ちでもしたい気持ちだった。
「……はい」
ここへ来て初めて市の声を聞いた。
長政は跳ね上がるように立ち上がり、慌てた声を出した。
「ああ、わかってくれたなら良い。ではな、今宵はゆっくり休んでくれ」
一方的に言い放ち返事も待たず部屋を出た。
己のうろたえ様が滑稽だった。
だが、同時に不安を生ずる予知を得た。
(あれの美しさには魔性の気があるな)
傾国の美―そんな言葉が頭を過ぎる。
女の美しさによって死んだ英雄が居たはずだ。誰だっただろうか。
独りの美女に斃された国とは、どこだったか。
大丈夫だ。長政は強く心に念じた。
私は断じて、色に溺れ、正義を見失ったりはせぬ。
正直、女は扱いにくいし、相手をするのは得意ではない。
だが、彼女ともうまくやっていこう。
なんとかなるさ。
急に長政は楽観的にそう考えた。
正義は揺らがない。正義はこの世の理である。
心に強く正義がある限り、この程度の困難など、足枷にもなりはしない。
長政は来たる太平の世に思いを馳せながら、寝所へと歩いていった。
<了>