「良いですか、上総介様。何度も申し上げておりますが、お相手は斉藤道三の愛娘で、この縁が今の織田家にとっての要となるのですよ」

「何度も申したと判ってるのだったらもう黙れ。いい加減しつこいぞ」

廊下から二種類の声が響く。
片方の声の主は、青年。風を切るように大股で廊下を大股でずかずかと歩いていく。
もう片方はもう壮年を過ぎた頃の初老の男。
青年は殆ど半裸に近いような格好で、いかにも身軽に歩を進めるのに対し、初老の男はきちんとした身なりをしているため、速度が出ない。
大急ぎで小刻みに足を動かし、懸命に青年に着いて行く。
その目の下には寝不足を現す濃い隈が見られた。
昨夜心配でとても寝られなかったのだ。
それも、真面目な男で、この青年の世話係となれば年中の事だった。
だが青年はそんな男に対する気遣いも見せず、振り向きもしない。掛ける言葉も右から左といった風だ。

「でしたらせめて、その様な格好で御会いになるのはお止めください!この爺、必死にこの縁談、ここまでお取り纏め致しましたのに、ふいになってしまう様なことがあれば…」

「わかっている」

「上総介様。帰蝶様は、たった一人、この尾張へ嫁いでいらしたのです。
才女と名高い方とは言え、不安になっておられることと思います。そこへ来て、始めてみる夫の姿がそれというのは…お恐れながら…余りにも、余りにもその…」

そこまで言って、男は語尾を濁した。
聞き入れない様子に焦りが生じ、言葉が過ぎるところであった。
いくらその風采がないとはいえ、相手は織田家の次期頭領なのであった。
いっそ今のは聞かれていなければなどと思いつつ口篭るしかない。

「平手、はっきり申せ。俺はそうやってごじょごじょとされるのが一番嫌いなんだ」

平手は内心溜息を吐き、己を悔いた。
相手は、こう言い出してしまうと、言うまで許さない。

「…ではお恐れながら…申し上げます。上総介様が何時もの様なご様子ですと……その、姫様には、余りにも……酷かと存じます」

恐る恐る言い、俯いていた顔を上げるとそこに青年の姿はなかった。
慌てて見回していると、もう廊下の曲がったずっと先、遠くから大きな笑い声が聞こえた。

「安心しろ!上手いことやろう!!女の相手は初めてでは無い!!」

平手はもう嫌だといった悲鳴のような悲痛な声を張り上げた。

「また、そ、その様なことを大きな声でお止めください!!
周囲に響きましょう!!!!姫様に聞こえれば何とします!!!!!」



事実、帰蝶―濃姫には聞こえていた。
何しろ、部屋の戸のすぐ前で大声を出されているのだ。
しかし不安を覚える暇も無い。
すぐに乱暴に戸が引かれた。

「よお」

(これが上総介様…?)

うつけとは父から聞いていた。
噂が誠なら、撃ち殺せ、とも。
色々と想像を巡らせたりもしてみたし、先刻から聞こえてくる会話の様子からもぼんやりと予測はしていた。
それでも濃姫は、落ち着いた様子で応対しようという当初の心と裏腹に、たじろいだ様に体を震わせた。
男は奇抜な格好をしていた。
下半身は変わった形の南蛮具足を、いつでも戦場を駆ける事が出来そうな位かっちりと付けている。
だが上には何も来ていない。腹に晒しを巻いたきりだ。
髪は髻も結わず、ただ後ろに乱暴に流しているだけ。
むき出しの筋肉質な胸の辺りには深いものから浅いものまで多種多様な傷の跡が走っている。
今の今まで何をしていたのか、つい先程に付いたかのような真新しい傷も見えた。
声も出せずにいる濃姫を、男はにやにやと笑みを浮かべながら立ったまま見下ろしている。

「信長だ」

これ以上無い簡潔な名乗りにはっと我に返る。

「斉藤道三が娘、帰蝶と申します。これからどうぞ宜しく…」

濃姫が、言いながらもきちりと折り目正しく礼をするが、

「おう」

まるで聞いていない様子で、どっかと濃姫の目の前にあぐらを掻く。

濃姫の方には気負いがあった。
これはただの嫁入りではない。両家の策謀交差する政略結婚だ。
父は周囲に蝮と呼ばれ恐れられていた。
陰険な姦計をめぐらし、無慈悲なまでに利を奪う者だと。
だが、濃姫は父親のそういった所が好きだった。
この群雄割拠戦国の世、父に対する世の非難なぞ、負け犬の遠吠えだと思った。
その父に尾張盗りの一手目とも思える婚姻を任された。
戦乱の世に翻弄されるがまま我が身をはかなみ生きる、か弱い”女”で終わるつもりは無い。
世の大きな流れを、動かす中に居てやろうと思っていた。

ところが目の前の男はどうしたことだろう。
この時勢、誰にでも少なからずある、そういった気負い。言うなれば人の”芯”のようなものが見受けられなかった。
濃姫を真正面から見る目には、美濃の者への敵愾心も、若い娘に対する好色な色も、浮かんではいない。
ただ、面白がっているような様子だった。

「ふん、平手のヤツ、またよくよくの思い違いだな」

信長は独り言つと、胡坐を崩し、足を投げ出した。

「あんたも楽にしろよ。演技はいい」
「演技?」
「殺りに来たんだろ、俺を」
「なっ…」

濃姫は驚きで頬を紅潮させた。
なんと、明け透けな、男の物言いか。
負けてはならない、と濃姫は思った。
揺さぶりをかけようとしているのかも知れない。
美濃の何か、弱みを探しているか、単に小娘とからかっているのか。
うつけなら単に後者なのかもしれない。
だがどちらにせよ、向こうが溜飲を下げるような振る舞いはしたくなかった。

「御会いになって間もないと言うのに、その様な御戯れ仰らないでください。
私はあなた様の元に、お嫁に来たのですよ?」

年頃の娘に相応な、花の蕾の綻ぶような笑顔を浮かべる。
信長はその顔に向けて、いきなり二丁拳銃を構えた手を突き出した。

「美濃の女はこんなものをもって”お嫁”に来るのか?」

今度は濃姫は平然としていた。
ここで殺すわけが無い。
殺気も感じられないし、第一そんな事をすればこの政略結婚も水泡に帰し、織田には不利なことばかりである。
大方、からかって震えるのを笑おうというのだろうと、そう踏んだ。

「あら、いつの間にそんな物お見つけになったんですか」
「おう、借りたぞ」

案の定というべきか、信長は撃鉄を上げてはいなかった。
持ち慣れた動作から見るに、その程度の事、知らないと言うわけでも無いだろう。

「父上より、身を守れと渡されたのです。お返しください」
「別に撃つ訳でも取る訳でも無い。中々面白い銃だ、見せろ」
「構いませんが、女の荷物を勝手に探るものではありませんわ」

動じもせず事も無げに言う姿に、信長は益々愉快そうにした。

「はん、マムシ女が本性見せたな。それでいい」
「まあ、何故その様に仰るのです」

軽く怒ったような口調で言うと、肩を竦める様な仕草を返される。

「どうせ俺の周りは敵ばかりだ。一人増えたとこで、どって事ないさ」

手元で濃姫の銃を弄りつつ不敵な笑みを浮かべた。
四面楚歌の我が身を口にするには余りにもあっけらかんとした口ぶりだ。
濃姫はその姿を見るうちに疑念が頭の中を徐々に犯し始めた。

「敵ばかり、ですか」
「そうだ。あんたの親父やら、外の者ばかりでは無いぞ。
身内の者も、家臣も、領民すら俺をうつけと呆れている。
呆れるだけなら捨て置くが、どうやら向こうは構って欲しいようなんだな。
あんたの親父も言ってたろう。あの尾張のうつけめを殺せと」

「いいえ」

濃姫はかぶりを振って言った。

「うつけ”を”殺せではありません。うつけ”ならば”殺せと言いました」
「は!マムシめ!!」

信長は銃の持ち手の方を濃姫に向け、それを彼女に返した。
濃姫は受け取ると直ぐ、手元から離し、脇に置いた。

「で、どう思うんだ?」

なんと答えていいかわからず、濃姫は口をつぐんだ。
確かに、まともだとは言い難い。
うつけと言えば、うつけであろう。
だが、至って凡な人間よりずっと、眼や、口ぶりに強さを感じた。
思えば父親も、風評はけして良い方では無いではないか。
風評で、何がわかるというのか。

「私は…見せて頂く事に致します」
「うん?」
「あなた様の行く末を。もう少し見ていないと、わかりません」
「俺の行く末か」

信長は腕を組んで、背を壁に持たせかけた。
眉を顰め、少し遠くを見るような顔をする。

「正直、末まで行けるかわからん。どうなることやらなァ。
だが、もし上手く行くならば、俺はこの程度の悪名じゃ済まんだろうな」

信長の言葉を聴いて、濃姫が小首を傾げた。

「上手くいって、悪名がひどくなるのですか?」

信長がまたニヤリと笑って、濃姫のほうに身を乗り出した。
近くで見れば、秀麗な二枚目とは言わないが、中々に端正な顔立ちのようだった。
だが、その眼が余りにも眼光鋭く、けいけいとほの白い野心を閃かせている為に、若き城主としての上品さや、据わりの良さは感じられない。

―狂気に近い

濃姫は、人間というより、肉食の獣ににじり寄られた様な気持ちになった。

「ああ。もし俺が天下も取れんで死ぬなら…俺の名など百年も残らないだろう。
うつけと呼ぶものも居なくなる。忘れ去られるわけだからな」

信長がぐい、と腕を伸ばし、濃姫の黒髪を指ですいた。

「だが俺が俺の覇道極めるなら…」

知らず、濃姫は釣り込まれるように信長の語るのを聞いていた。
強い眼を見返すのは気が怖じたが、逸らすこともまた出来ない。
触れられていることも、未だ気付いてはいなかった。

「信長の悪名、永劫消えることは無いだろう」
「あ……」

濃姫は気持ちの奥底が震えるのを感じた。
一瞬、この男が覇道の果て、世を統べ、君臨し、全てを己の元に組み敷く姿が瞼の裏に見えた気がした。

「俺はその時まで、何を顧みることもしない。あんたにいいメも見せられないぜ」

信長は、今一度、問いかけるような顔をしていた。

―あんたはどうするんだ?

そのときには濃姫の腹はもう決まっていた。

「―私にとっていい目とは天下人の妻となる事です」

内に秘める理知を感じさせる、艶然とした笑み。

「それ以外の目は嫌です」

にっこりとしたまま言い放つと、信長の哄笑が響いた。

「はっは!!女!!!お前もいいとこ”うつけ”だな!!」

そのまま覆いかぶさるように押し倒すと、流石に濃姫は頬を赤らめ、狼狽する様を見せた。
途端に男が半身剥き出しにしていることが意識され、相手を直視することすら適わない。

「面白い。俺一人でどうとでもするつもりだったが……着いてきたければ来るがいい」
「はい、そう致します」

先程まで強気に信長を見返していた濃姫が、今度は必死に顔を背け、目を逸らしながら言う様子を見て、信長が目を細めて笑った。

「女、名を教えろ」








「上総介様……」
「おう、平手」

翌日、信長は城の門前に居た。
今にも馬で外出しようという所で、いかにも恐る恐るといった平手の声が掛かった。
朝早くから、疲労の色がある。
振り返りはしたものの、信長は馬から下りる素振りもなく、馬上から平手を見下ろしていた。

「…お二人の仲は上手くいきそうですかな」
「また朝から心配か。まあ、やる事はやった。安心せい」


また、闊達な信長と、それに目を白黒させて冷や汗しきりの平手といういつもの光景である。

「そ、その様な仰り方で何を安心できましょうか!!」

高く抜ける青い空の下、信長の愉快そうな笑い声が轟く。

「あれは敵に回せばジャマだったろうな」
「何ですと」
「だが手を組んだ。うつけの夫婦が天下を下に置くぞ!見ておれ!!!」

言い放ち、あれよという暇も無く、その馬上の姿は遠く、城下に消えていく。
残された平手がただ一人、何を考えているやらと、途方も無い思いに呆然とその背を眺めていた。



<了>











道の始め