獣道を抜けると北の岩壁が立ちはだかった。
こっちに抜けて来ちまったのか。無駄足を踏んだ、そう思ったがよく見たらよじ登れそうな所があった。
その上がうまい具合に岩棚になっている。
銃を背に担いで、片手で岩壁に手をかけた。
利き足に重心を移したら、鈍痛がした。
見下ろすと足首がごっそり抉れている。あんたに経験があるかわからないが、暴力の最中ってのは痛みが麻痺してる。肘から先がないのに後から気付いた、ってやつも見たことがある。
やり合った時、避けた気になってただけで実際には喰らっちまった分があったんだろう。

人影は見えなかったがあまりぐずぐずも出来ない。痛むのを堪えて靴を脱いだ。骨はイッてないらしい。厳しい評価を下すなら、ヒビくらいはわからないが。血止めを塗って枯れ木を添えて乱暴に処置した。
数本の枯れ木を仕舞い込む。
後は痛みに逆らって出来るだけ動かしておくしかない。
傷のある箇所を動かしてるといつも生きているのがイヤになってくるが、これを怠ると一夜空けて関節が固まっちまう。そうなると、治るまでそこが動かない。安静にしていて良い身ならそれでもいいが――治りはその方が良いんだろうな――軍人は大体そうもいかないもんだ。
今度は利き足と反対の足で踏み込んで、地を蹴って壁にしがみついた。
岩棚の上にうまく上がると、今度は深い隙間があった。俺一人ぎりぎり通れるか通れないか、位の隙間で、覗くと闇が広がっていた。火を擦って腕をその中に突っ込んでみる。天然の洞穴だ。岩壁。洞穴。

この山にでかい洞窟が一つ空いているのはわかっていた。だがそれはここじゃない。
それがある筈なのは確か、大体、織田が今納まっている辺りに――俺は息を止めて体を隙間にねじ入れた。
闇が俺を迎え入れた。

何度か足を滑らせながら奥へと進んだ。右手で岩壁を触りながら――これで戻ってこれなくなることはない。途中更に上に登るようなところと下がるところがあったが、全体的には段々降りていっているみたいだった。
空気は淀んで濁っていた。あまり長いこと居たい場所じゃない。
しばらく行って確信する――どんどん降りていっている。
お構い無しに進んだ。
時間の感覚がなくなりかけた頃薄明かりが見えた。
明かりに目を凝らす――光に目を慣らす。
ゆっくり、音を立てずに、忍び寄る。

織田の陣裏。積まれている火薬。紛れもなく、織田軍の心臓。腰が抜ける。イイ女にちょっと声を掛けただけで、服を脱いでしなだれかかられた気分だった。
望んでたのは確かなんだが、得られたものがデカ過ぎて、頭が付いていかないんだ。

身を潜めたまま銃を降ろして地面に立てた。
火薬、弾を込める。
カルカで突く。
起こして火蓋を切る。
火薬を盛って閉じる。
火縄を挟む。
何千回と繰り返してきた動作。
どんなに時間を短縮しても、この最中は心が浮わつきそうになる。
糞してる獣と一緒だ。戦う体勢が整っていないって訳だ。
どこからともなく槍兵が現れて、四方から串刺しにるんじゃないかとか、そんな事が頭に浮かんでくる。
たった二十かそこら、数える間なんだが、数倍に膨れ上がって感じるんだ。
だからその分最後に火蓋を切った時は気分が良い。
何でも出来る気がしてくる。人差し指を、ちょっと曲げるだけでな。

暗闇からゆっくり銃口を向ける。
積み上げられた武器。傍らに無防備な火薬壺。
誰か、故郷で祈ってやってるだろうか。
今から自分が死ぬと分かっていない連中のために。
俺は引き金を引いた。爆発は火炎を急速に広げ、陣中は炎に包まれた。焼けて転がる織田軍の死体。
殆んどが手首や、片足、頭蓋の欠片のような人体の切れ端。
いつかの逆転。あの時は織田軍が俺達を切れ端にした。今度は俺が連中を。完璧な立場の反転。
俺は何も思わないでそれを見ていた。何か思うべきだったんだろうな。でも何も思い付かなかった。こんな時に思うべき事が。
辛うじて生き残った兵士がよろけながら火の手を何とか避けようと、こちらへ近づいてきた。右肩がない。
仲間を残った左肩で支えていたが、仲間は尚悪い様子だった。
連中は見ている俺に気付かない。
背負われた男が、背負う男に声を掛ける。

「なあ、いいから殺してくれないか」

ボロくずが口を聞いたみたいな声だった。
嗄れて、掠れて、捩れている。
何を言っているのかよくわからない。

「……俺だって、死にたいよ……」

こっちは肩の無い方。担いでる方だ。
泣いているみたいだが、まだはっきり聞こえた。

「わかるだろ。怖いんだよ。連れて帰って、傷を見て貰って……横になって、安静にして、」
「大丈夫。俺が連れて帰る。きっとそうしてもらうぞ」
肩の無い方の声に生気が灯った。背負われてる方に、励まされたんだと思ったみたいに。
横になって安静にすることを頭に思い描いて、そこに希望を見い出したんだろう。
死にかけている男が続ける。

「そうして死ぬのが、今死ぬより怖いんだ。今死にたいんだよ。わかるだろ……」


返事がなかったおかげで、辺りはしん、と静まり返った。だが、わかったに違いない。俺にだってわかった。
歴戦の、もう戦場なんかなんでもない人間でも、戦場を日常に持ち帰るのは辛い。死ぬより耐え難いってのも大袈裟じゃない。
色々思い知らされるからだ。戦場では見えなかったが事が見えてくる。
自分が戦場で負ったのは、名誉の傷じゃなくて、ただの傷だって事。自分は悲劇の将じゃなく、運が悪かっただけだって事。美学も信念も、うんざりするような痛みと永遠に失われた五体に比べたら糞だって事。
栄光なんか永遠に手に入らないこと。
戦場からの帰還では苦痛から救われない。日常が死の床を作る。いつも寝ていた床で、へばり付いて死を待つ。結局道連れに出来るのは傷だけだ。

もし奴らに逃げ道が――救いがあるなら、それは俺に気付くことだ。
俺は息を殺して立っていた。出来たら気付かないで欲しかった。

「そうだな。俺も帰りたいのか帰りたくないのか、生きたいのか死にたいのか、もうわからなくなってきた。でもお前は殺さない。そんな事したら、俺は独りになっちまうだろ。それは、いやだ。耐えられないよ」

嗚咽が聞こえて、声がまた暫く途絶えた。

「……とにかく、帰ろう。俺達がこうして無事だったのは、仏の導きなんだ。
生きて帰りさえすれば、何で生きて帰らなきゃいけなかったのか、わかるさ」

そう言って踏み出した一歩の先に、俺がいた。
全部無駄だった。
全部時間の問題だった。
担がれている方は俺を見て叫んだ。悲鳴は反響して、わんわんと歪んだ余韻がいつまでも続いた。男はよろめいて後退った。もう一人がずり落ちて頭を打った。こっちは静かなもんだった。

悲鳴は続いた。刀を抜いた。取り落として、拾い上げた。また取り落として拾い、取り落とした。何度もそれを、いつまでも繰り返す。俺はまだ、何もしていないのに。

「お前が、何もしないなら、俺も、何もしない」

俺はのろまがのろまに言い聞かせるようにゆっくり言った。

「あの火は俺が着けた。けど、今俺らが戦う必要は無いだろ」
「そんなわけにいかないの、わかってるだろう!!」

怒りと敵意。切っ先は震えている。肩から流れた血が腕を伝い、刀の柄をぬるつかせている。
男が俺に斬りかかる。怒りに任せた、勝つ気の無い突進。
銃剣で切っ先を逸らした。身を反転させ、柄で肩を打った。刀を取り落として膝を付いた。それでも素手で掴み掛かろうと向かってきた。胸を蹴り飛ばした。男は吹っ飛んだ。顎を蹴り飛ばした。血と胃液を吐き出した。何でそんな真似が出来るのかって? 言ったろ、戦場では痛みが麻痺しているからだ。利き足は痛まない。俺は男の具足と具足の継ぎ目に剣先を宛がって、体重を乗せた。肉を突き通す手応え。
弱々しい悲鳴。口をパクパクさせている。

「あんた、名前、は」
「雑賀孫市」
「――なんてこった」
「悪かったな、綺麗にとどめ刺せなくって」
「あいつも頼むよ。あいつも殺してやってくれ、頼む」
「わかってる」

先を少し捻った。体がびくりと跳ねた。
それで終わった。
もう一人に向き直る。
ボロくずみたいな男。倒れたまま、じっと俺を見ている。いつかの逆転。繰り返し重なるあの日の景色と今の視界。世界は反転した。今は俺が信長だった。倒れているのは証恵で俺であの日死んだ一揆衆だった。

視線に感情は乗っていなかった。ただじっと見ていた。何も言わず、ただじっと俺を。
誰に殺されるのかだけ、頭に刻み付けたいみたいだった。すぐに忘れる事になるのにな。いや、忘れるも何も。脳は脳じゃなくなるんだから。

俺はその男を殺した。
俺は雑賀孫市だ。
俺は織田信長じゃない。
やっている事が殆んど変わらないってだけだ。

「仕方ないだろ。奴らは勝てっこないのをわかっていて向かってきた。何もせず突っ立っていたら俺が殺られてた。降伏して、もう戦う気が無い人間を斬るのと、こっちを殺す気の、同時に死にたがってるも同然の半死の人間を殺すのとじゃ違う。俺と信長は違う」
俺の言い分があるとしたらこれだ。通用しそうか?
俺とあいつは似てはいない。共通点――どちらも殺人者。放火魔。何も残っていない脱け殻みたいな人間を殺した。弱った虫みたいに叩き潰した。俺は信長を憎んでいる。信長を殺すと決めている。
だが自分の始末はどうつける?

俺は戦争屋だ。
俺は殺し屋だ。
金の為に楽しんで発砲する自分の魂にどう決着をつける?

嗅ぎ慣れた火薬の匂い。
無意識に岩壁にぶち当てる位の勢いで身を翻した。
弾丸が思考の霧をつん裂いた。
命中はしないものの、俺は被弾した。
左耳が熱い。千切れて持っていかれたかもしれない。
今だ燻っていた炎の中から、黒い人影が現れた。

繰り返し現れるいつかの逆転。
信長が火縄を構えていた。
炎の中で信長が笑った。

「偶には撃たれるのも、面白かろう」

全部飛んでいった。俺の中にあった全ての要素が。憎しみすらかき消えた。認めたくないが、俺は心底嬉しかった。こいつが現れて。何も考えなくていい。ただ戦えばいい。向こうも人でなしなら、何も遠慮しなくていい。胸糞の悪くならない殺し。純粋な敵――その時の俺に必要なのは敵だけだった。随分と陰惨な話だけどな。

「笑っているな」

信長はそう言ったが、俺自身には、俺がどんな顔をしているかはわからなかった。






















代償の血を流せ4