『latent infection』
血が見られると思うと寝られない。
それでずっと月を見ていたのだ。
今日という日の月は、雲のない空に、翳る事もなく美しく浮かんでいる。
それさえ見ていれば満足だったのだ。
明日には、血が見られるのだから。
大量の人の血を。
手に持つ鎌に視線を下ろす。
一転の曇りも無く研ぎ澄まされた鋭利な刃。
だが美しいとは思わなかった。
赤く染め上げてこそ、刃物は冴え冴えと美しさを放つ。
今はまだ、これは眠っているのだ。
背後に、歩み来る人の気配を光秀は感じた。
気配、などという事もない。相手は来るのを隠す様子もない。
カチャ、カチャ、と具足の鳴る音もする。
それでも光秀は、気配の方を、より強く感じた。
相手が、魔王と畏怖されるあの男だからであろう。
「どうされました、信長公」
言ってゆらりとした動きで光秀が振り向く。
珍しく見開かれた目に映っているのは、果たして信長であった。
兜は冠して居ないものの、具足を身に纏い、剣を携えた恰好である。
寝しなに寄ったという訳ではないようだ。
「相手をしろ、光秀」
静かな声が草はらに響いた。
すぐ近くの野営の陣は、見張りを除いて休息の様子を見せ始めている。
「相手、とは?」
「我と打ち合え、と言うんだ」
光秀は薄く笑みを浮かべながら首を傾げた。
髪がさらさらと顔の前を滑り、半分を覆い隠す。
どこまでも内面が窺い知れず、得体の無い風姿である。
「それはまた、おかしな事をなさろうと……。
明日、戦だと言うのに。昂ぶって眠れない、などという柄ですか? あなたが……」
「では嫌か」
「出来れば遠慮したいですけどね。ご命令なら、今、摸擬用の木刀をお持ちしますよ」
言い終わる前に信長が腰の長剣を抜き放った。
ぎら、と刃が月光を浴びて光る。
紛れもなく、平生、戦にて使用しているものだった。
「これで、と言えばやる気が起こるか」
信長の声には笑みが含まれている。
だが目は笑っていない。
光秀は一瞬笑むのを忘れてじっと刃を見ていたが、信長に視線を戻すとまたへらりとした笑いを顔に貼り付けた。
「これはこれは、ますます話の風向きがおかしくなって来ましたね……。
私を手打ちにでもすると、仰りたいのですか? 咎も無いというのに、戦の前日に」
「貴様もいつもの鎌を使え。ただし、あくまでも模擬だ。だが」
信長がひゅ、と剣を振った。
僅かな風が起き、光秀の髪が靡いて両目が露になる。
その目はじっと動きもせず信長を見ている。
信長の色素の薄い目は、いかなる情の動きも映さない。
口元だけが吊りあがり、笑みの形を作る。
「貴様は殺す気で来たっていい」
光秀が口元で、くすくす笑いを漏らしたかと思うと、それは増幅されてやがて全身を使ってげたげたと笑い始めた。
信長が何を考えているかはわからない。
他の部下誰に言っても、これは突飛で気違い染みた暴君の申し出と取られただろう。
常軌を逸した振る舞いであると。
この場にまともな神経の者が居て、信長に対する恐れを抱いていなければ必死で諌めたであろう。
光秀を、庇い立てする形で。
だが、光秀にとってはこれは、この上も無い甘言であった。
元より、人を殺すと言う行為に、逸脱した感情を抱いていた。
どんな女の腕よりも、死がいとおしかった。
信長の、生命の、最後の苦痛すら蹂躙するような殺し方に惹かれた。
信長も殺しながら、良く笑う。
だが、光秀と彼は違っていた。
血の快楽すら、彼を芯から蕩かしはしない。双眸は常に醒めていた。
「殺せと言うのですか、私に、あなたを」
隠し通してきたはずだった。
―その目に苦痛が揺らめく時、どんな色をするか。
―死が彼の影に這い上がってきたなら、どんな風に―その表情が変わるのか。
試してみたくて堪らない気持ちを。
「出来るのなら、試してみればいい」
からかう様な、侮蔑の混じったような声音に目も眩む思いがする。
光秀は指先まで走る震えを必死で押さえつけて鎌を握り締めた。
信長が構えの姿勢を取る。
流石に散弾銃は抜かない。
だが峰で打とうという気も無い様で、紛れも無く刃で斬りつけてきた。
一撃目を鎌の長い柄で受け止める。
重い手応えは、冗談という可能性を微塵も匂わせない。
受けなければ、腹を切り裂かれていた。
では、何が模擬だというのか。
決して生半可な攻めではなく、油断や、迷いを少しずつ削り取り、本気を出さざるをえなくさせるようなぎりぎりの苛烈さがあった。
光秀の内の殺意を、本気を煽り立てるような。
迫る剣撃と、欲望両方と同時に戦うのは、気も狂いそうな行為だった。
「やめましょう、信長公。これでは、私は、本当に」
「―殺してしまいたくなる、か? 貴様は出来ぬ」
信長が笑う。
光秀は、やはり彼なのだ、と思う。
幾ら殺しても渇いている。
殺しているその時は良い。だが終わってみると、馬鹿馬鹿しくって笑ってしまう。
ああも直ぐに醒める快楽では駄目だ。
もっと恒久的で強烈な、永遠にその中で漂い続ける事が出来るような快楽が欲しい。
その為の、ただ一人の存在。
「光秀。出来ぬのよ。貴様に余を殺す力は無い」
光秀の殺意が、瞬間膨れ上がらんとした刹那、信長が右に持つ鎌を弾き飛ばした。
よろめいた体を踏み倒し、左腕を右足で押さえつける。
振り下ろした剣が光秀の顔のすれすれの地面に深く突き刺さった。
軽く頬に刃の冷たさを感じた。
切れはしなかったが、ぱらぱらと髪の落ちる音がした。
月を背にした、黒い影。
人の形をした、闇そのもの。
「ああ、なんていうことだ、信長公
あなたの剣捌きは、粗野で冒涜的だ。だが、あの月の様に無感情で美しい―
このまま、殺されてもいいですよ……私は」
「そうしてやりたいがな」
信長は囁くような声で言うと剣を引き抜き、光秀の上からどいた。
光秀は少しの間固まっていたが、くすくすと笑い、肩を震わせながらぼんやりと身を起こした。
「結局、何だったのですか、これは」
「お前は、血に酔いすぎる嫌いがあるからな、試してやった。
抑えきれないなら使えぬ。斬るつもりだった」
「では、合格したのですか? 私は」
「辛うじての分別はつくと踏んだ。まだ、我の元で働け」
信長はまだパラパラとこびり付いていた土の落ちる剣を爪先で何度か蹴って土を振るい落とすと、踵を返した。
光秀はその去り行く背を闇に溶け消えるまで目で追い続けた。
心のうちから歓喜が沸き起こるのを感じた。
たった一人、静けさの中で。
「そうだ。今、本当に殺してしまいたかった。
だが、それではあなたは驚きはしない。悔しさも感じない。ただ、”やはり”と思うだけだ。
それでは駄目だ―もっと深い、内から沸き起こる、最初で、最期の深い、深い絶望を抱いてもらわなければ……
ふふふ……ははははは!!!!私は嬉しいですよ!!信長公!!!!
生きる甲斐を、生きる意味を、あなたは与えてくれたんだ……!!!!!!」
光秀は狂った哄笑を響かせた。
体を苦しげによじる度、月光に鎌の刃が照ってギラ付く。
まるで早く血を吸わせろと焦れているかのようだった。
<了>