「おーい、市!」

ゆるりとした午後の気配の中で、突如背に聞こえた障子戸など吹き飛ばしてしまいそうな大声。
市は驚き、びくり、と身をすくませた。
振り向くとやはり兄信長であった。
他のどの兄もしていない様な奇抜な格好に乱雑な髪型であちこちに乾いた土を貼り付けてニヤニヤ笑っている。
それ自体は驚く事ではない、いつもの兄の格好であった。

「……なに? 兄さま」
「お前今何をしてた? まあ、いいか。どうせいつもの様にぼけーっとしていたのだろう」

勝手に決め付けて、ずかずかと室内に踏み込む。
畳が汚れることなど全く関さない様子で、ただ周囲の市の侍女達だけがおろおろと物言いたそうにその様子を見ている。
生まれつきのんびりとした気性の市は特にどうと思いもせずにただ兄を見上げていた。

「遠乗りに行くぞ!!お前も来るだろ?」
「……うん」

頷くのも待たず信長が屈んで市の腕を乱暴な素振りで引いた。
ついに、思わず侍女の一人が声をかける。

「か、上総介様いけません、その様な……」
「馬鹿!!偶には日に当てぬと市に黴が生えるぞ!!」

只でさえ内心ビクつきながら語りかけた所を怒鳴りつけられ、侍女は困り果て泣きそうな顔をした。
市は大丈夫、すぐ帰るからと口にしようとしたが、一方的に手を引かれ、その機会を失ってしまった。

「兄さま、遠乗りってどこに行くの?」
「そうだな……考えていなかった。
そうだ、この間見つけた鷹の巣を見るか? 市、お前木は登れるか」
「市は木はのぼれないわ」
「じゃあ駄目だな。よし、川原にするか。俺が確かめたいことがある。ほらっ乗れ!!」

屋敷を出ると、信長は市の痩せた体を軽々と持ち上げ、外に繋いでいた、いかにも逞しい連銭葦毛の背に乗せた。
自分もその前にひらりと飛び乗り、馬の腹を蹴る。
葦毛は高く嘶くと力強く前足を繰り出して駆け出した。びゅうびゅうと風を切り、市は目も開けていられないほどだ。

「どうだ、まだ速く出来るぞ、落ちるなよ!!」

市は目を細めて、必死に次々と変わる景色を目に留めた。
暫く駆けた後に信長は馬に速度を落とさせ、飛び降りた。
駆けている時間は短く感じられたが、どうやらもう随分遠くに来ているらしい。
途中林の中や獣道のような、普通なら誰も通らないような所も通ってきていた。
日々駆けるうちで見つけた、信長だけが知っている早道だ。
川原の前もって立てて置いたらしき杭にその馬を繋ぐ。
という事は、信長はここに既に数度来ているということだろう。
市がおずおずと川原の土手に腰を下ろし膝を抱えて川を見ていると、信長がどっかりと横に胡坐をかいて座った。
腰に下げているいくつかの袋の一つをごそごそとやっている。

「干し柿だ、ほら。食うか?」
「うん」

市に一つ渡すと、齧る姿をじっと見ている。
疑問に思った市は首を傾げた。

「どうしたの? 兄さま」

問うと今日初めて不機嫌そうな顔をした。

「何か、言いたく無いか」
「……? あ、うん、ありがとう。おいしいよ」
「違う!!」

声を荒げられ、市の体が小さく跳ねた。

「ごめんなさいっ」

反射的に目を閉じて謝る。
ビクつきながら目を開けると、兄は寝転がり、拗ねた様に組んだ足をぶらぶらさせていた。

「馬だ、馬」
「…馬……?」

思わず、馬を見やる。
まだ若いその馬は散々駆けさせられたというのに疲れた様子も見せず、大人しく繋がれたままに待っている。

「速くて、いい馬だね。走るのが好きみたい」

途端信長が我が意を得たりと顔を輝かせ、がばりと起き上がり、身を乗り出した。

「そうだ!こないだ手に入れたんだ。気に入ったからお前に自慢してやろうと思ってな。
お前、馬好きだろうが」
「うん。好き。この子はいい子ね」

暫く信長はその馬について子供が新しい玩具を手に入れた時のように無邪気に説明し続けた。
市も兄の機嫌が直ったのが嬉しくほっとしたので、微笑み、時折り頷きつつそれを聞いている。
際限なく続き、何時までも終わらないかと思えたが、ふと思い出したように信長が話題を変えた。

「おお、そうだ。これじゃ馬の話で日が暮れてしまうな。市、お前親父をどう思う」
「え」

突然真面目な顔になった信長に驚き、どう答えたらいいかわからなかった。
正直な所、父親について特に思うところなど無かった。
ただ普通に自分の父親なんだ、と認識しているだけだった。
何時までも口を閉じ何も言わない市。
平生の信長ならまた焦れて声を荒げている所であっただろう。
だが信長はそのまま真剣な顔で声を低くして短く、

「あれは長くないな」

とだけ言った。
市はどきりとして目を見開いた。
何故兄がそう言うのかわからなかった。
父はまだ死ぬような歳ではなかったし、特別なにかの病気というわけでもない。

「父様が……なぜ?」
「俺にはわかるんだ。お前はどうかと思ったんだが、特に何も思わなかったか」
「……ごめん、なさ」
「別に何で謝ることがある。とにかく、そうなると尾張は俺のものになってしまうな」

尾張が、信長のものになる。
市には想像も出来なかった。
兄は市には良い兄に思えたが、周囲ではうつけと呼ばれ、実際幾つになっても変わらず悪童のやるような事ばかりをしている。
それ故誰もが彼に家督が受け継がれることによる尾張の崩壊を危ぶんでいる。
弟に継がせた方がよいのではという説を唱えるものもけして少なくない。
鷹と馬が好きで、同じような悪童仲間のガキ大将として野山を駆け回っている兄がその様な重要な地位で織田家を統括するなど、市にもまた、余り織田の為にも兄のためにも良くないように思えた。
そして、当の信長もそれを有り難がっていないように見えた。

「そしたら、どうするの? 兄さまは」
「あと少し、長生きしてもらいたいものなんだがな。早過ぎる。色々難しくなるな」
「……難しいって?」
「敵ばかりだろう。俺の周りは。誰も俺の話をまともに聞きゃせん。親父にも忠告をしてるんだがな。お前だけだ、俺の言うことを軽んじないのは。お前だけがこうやってまともに聞いてくれる」

市は改めて兄の姿を見た。
殆ど半裸のような姿。同じような年頃の良い家の出の男で、こんな格好の人間など一人としていない。
そのままの格好で城下にも平気で繰り出し、街の人間にうつけと後ろ指を差されようとも全く気にしない。
これでは誰も、話を聞く筈が無い。
市はそう言いたかったが兄に気が引けて、ただ困った表情で俯いた。
信長が気付いて眉を顰める。

「おい、どうした。もじもじしてないで、言いたいことは言え」
「うん……あ、あのね、多分、みんなは、兄さまがもっと普通にするようになったら、話とか聞いてくれると思うの。だから、ね、城主になったら城主らしくしたら、きっと」

消え入りそうになり、頬を火照らせながらの必死の言葉だったが、終わりもしないうちに信長が大声で笑った。

「はっはっはっはっは!!!市!!!!そうか、お前もそう思うか!!!
じゃあお前も、この兄をうつけと思っているのか?」

にやにやしながら面白そうに問う姿は、怒っているのではなさそうだ。
それでも市は答えることが出来なかった。
兄は酷く気分屋な所があるから、これで安心して「はい」などと言おうものなら態度を急変させるかもしれないからだ。

「そんな顔をするな、皆思っていることだ。だが、もう少しそう思っていてもらいたい。だから早いんだ、親父が逝くには」

只の兄の仮定とはいえ父の死を相変わらず笑いながら話す姿に、市はよくわからない違和感を覚えた。
だがそれも一瞬のことで、意識の外へ流れてしまう。
考えることが他にも多くあったからだ。

「はは。訳がわからんという顔だな。まあ、全部話してもわからんだろうが、簡単に言うと俺は天下をものにするつもりだ」

今度ばかりは市は肝を潰さんばかりに驚いた。
まさか兄の口から天下、などという語句が出てくるとは毛ほども予想していなかったのだ。
逆に兄は天下どころか織田家の家督にすら興味を全く持っていないものだと思っていた。
だからこそ、兄はこの歳になっても天真爛漫さを失わずに居られるのだと、それを好ましく思いつつも、そんな兄が家督争いに巻き込まれることを憂いていた。
だがその兄がケラケラと笑いながら、織田家どころか、天下をものにするなどと口にしている。
これはいよいよ、うつけなのではないか。

「ある程度算段を付けてはいるんだ。上手くいけば、俺の死ぬ前に事が済む」
「兄さまが天下を……? でも、どうやってそんな大変なことを」
「確かに生半可な事ではない。人は大体五十年そこらしか生きられぬからな。下手すると俺が先に老いて死んでしまう。これが厄介だ。
時間に制限がなければもっと他のやり方もあるんだが……市、お前天下を統べるに一番早い方法はなんだと思う」
「え……。市、そんなのわからないよ……」

先程に感じた違和感がまた市の心に舞い戻ってきた。
話せば、話すほど兄がわからなくなっていく。
先の馬の話の方がずっといい。こんな話は好きじゃない。
どんどん、兄が遠くなっていくような感覚を覚えた。
そして次に口を開いた信長の答えに、市は最初の決定的な言葉を聞く。

「それはな。”恐怖”だ」
「恐、怖?」

言葉の意味をしっかりと掴めず、また首を傾げる。
兄は、うつけで、途方も無いことを言っているだけなんだろうか。
取るに足らない妄言なのだろうか。
だが、兄は冗談ではなく、本気で話をしている。
口調にはしっかりとした意思が宿っていた。

「馬鹿ばっかりなんだ。世の中はな。それに何が正しいか、など人の心によって違う。
だから正しさで纏めようとすると恐ろしく時間が掛かる。
義などアテにならん。一番手っ取り早いのは恐怖だ。誰にも共通のものだからな
縛り付けてしまえば統率は成る」

市は何を言っていいかわからず、悲しげに首を振った。

「でも」
「でも、何だ」

上手い言葉が見つからない。また、怒られるかもしれない。
それでも、その考えには不賛成だと、どうにかして伝えなくてはいけないと市は思った。

「でも……無理だよ。兄さまは……優しいもの。怖くなんかないよ。
だから、兄さまには、そういうの、向いてないんじゃないかな……」

信長は怪訝そうに妹の言葉を聞いていたが、終わりまで聞いて満足そうにニヤ、と口の端を吊り上げた。

「それが、違うんだな。実はこの方法は、この俺にこそ打って付けなんだ」

そう言う信長の眼が刹那、純然たる悪の色を見せた様な気がして、市は全身に悪寒が通り抜けるのを感じた。
気が付けば日が落ちかけ、空が赤い。
血の色だ。
照らされる兄の顔が急に酷く恐ろしいものに見えた。

この人は、誰。
私の、兄さまではないの?

「と。日が落ちかけているな。風もあるし、市を冷やしたら俺が責められる。
話すことも話した、ほら帰るぞ」

信長がすっくと立ち上がり、また市の手を引き上げる。
市がのんびりとしているので、せっかちな信長はいつもこうして先回りして市の行動を促した。

「震えているな。何だ、もう冷えたのか」
「……ううん、平気」

にこりとした兄の顔にもう恐ろしさは残っていなかった。
先にあった会話自体が、無かったものだとさえ、信じようと思えば信じられるくらいに。
だが、実際には存在した出来事なのだ。
そして兄の頭の中にあの考えが存在することも、また、事実なのだ。

「俺はまだ、俺の本質を出していないからな。お前が信じられないのも無理は無い。
そうさせているのが俺なんだからな。だが、必ずお前がわかる日が来る。お前はこの兄に惚れ直すぞ」

また先に馬に上げられ、前に乗る兄の背を見ながら、市は心の中だけでそれに答えた。

そんな日は来ない。
兄が、天下を統べることが可能なような、そんな真の恐怖を身に付けるようなことなど無い。
そうしようと兄が努めたとしても、彼の根底は快活で、乱暴ではあるが優しい、今のものなのだ。
本質が悪だなんてそんな事は有り得ない。

屋敷に帰り着くまで、市は繰り返し繰り返し、唱え続けた。
自分に言い聞かせるように、何度も。
もう二度と、兄のあんな眼は見たくなかった。

きっと夕日の所為だ。
何か光と影の具合で、そう見えただけなのだ。
いつの間にか市はギュッと眼を瞑っていた。
吹き抜ける風と馬の揺れと、兄の背の体温だけを感じながら、市は祈り続けた。




<了>











凶兆