最初から、心の痛覚は麻痺したように何も告げてはこなかった。
身体の痛みなど、そう大したものではなかった。
何をああも、泣いたのかわからない。
ただ、彼は酷く傷ついていて、それはあの時どうしたって救えないものだった。
それが悲しかったのかもしれない。
また、自分の所為なのかも知れなかったのだから。
子は宿さなかっただろう。
確信がある。
自分と彼とは、男と女だが、何一つ、生み出すことが出来ないのだ。
お互いが欠けている所だらけで、己の傷を塞ぐ事だけに必死になっていて、何を為すことも出来ない。
市は長政を探していた。
長政は市に会いたくないと思っているのはわかっている。
それでも言わなければならないことがあった。
「……長政さま」
「市か」
長政は一切感情の聞こえない声で、返事をした。
二人が信長と相対してから、数月が経っている。
長政は今までに増して冷酷に事を進めるようになった。
まるで信長そのものだ、と噂する声すらあった。
だが戦中は前線で鬼のように剣を振るい、政務も疲れた様子も見せずにこなすのだが、そうでない時は自室に引き篭もり、じいっと一人物音も立てない。
一人、思考の中に沈み懊悩しているようだった。
部下が心配して声を掛けても頑なに「問題ない」、と返すだけで視線を合わせようともしない。
市とも、あれ以来、一切顔をあわせていなかった。
ひたすらに己の仕事をこなす事だけに没頭し、それ以外の一切のことから逃げ続けているようだった。
市は長政の死んだような目の色に心を痛めた。
もっと、強い意志の力を持った男だったのに。
これも、自分の所為なのだろうか。
兄の所為であるのかもしれない。だがどちらにしろ同じことである。
「……長政さま、あのね? 市、長政様に謝らないと」
「それは私の方だ」
「ううん、違うの。
……市、長政様に、兄さまと話したことなんか、殆ど無いって、そう言ったでしょ」
「ああ」
返事はいずれもぼんやりとした声だったが、やっと視線がゆっくりと、市の方へ向けられた。
市の、次の言葉を待っている。
「あれは、嘘だったの」
「そうか。別に構わない」
「……話させて。昔、あったことで、今まで誰にも言ってなくって、市だけがずっと知っていた事」
吐息の中に僅かに声が混じるような、市の聞き取りにくい声音。
その中に決意の重みに揺れる不安との感情と、強い決意の色が混じっていた。
長政はふと、この世で苦悩を抱えているのは己一人だけなのだという錯覚を抱いていた事を自覚した。
「ああ、聞かせてくれ」
市は、いつものぽつり、ぽつりとした口調で、ゆっくりと、少しずつ過去を語りだした。
昔、兄がまだ、ただの変わり者の青年に過ぎず、自分も一人の少女以外の意味を持たなかった頃。
多くの兄弟姉妹が居た中、お互いにとって唯一のきょうだいかの様に共に居た事。
少なくとも、市にとっては兄とは信長だけだった。
今思えば、家督争いに荒れる内部、周辺勢力に挟まれて汲々となっていた外部。
信長には違うものが見えていたのかもしれない。だが、市にとってはあの頃の尾張は箱庭みたいなものであった。
閉ざされていて、外を見ることはできないけど、その中に居れば安心な場所だった。
それが、閉塞的で息苦しいものと変ったあの日。
兄が、自分だけに教えてくれた本心。
(市、お前天下を統べるに一番早い方法はなんだと思う)
わからないと言ったし、わかりたくなかった。
(それはな、恐怖だ)
突然突きつけられた宣告。
それ以降、変容していく兄の姿を近くでただ見ていた。
信長は、己の内面を外に漏らすことは無い。
きっと、市だけが、知っていたのだ。
止められるのは市だけだった。だがそれをしなかった。
知る人間を増やす事も出来なかった。
何故市だけに教えたのか、信長の本意はわからない。
今となっては、もう、どこにも存在しないのだろう。
故も定かではない信長の行為によって、市は一人細い腕には重過ぎる荷を抱えてその場にへたり込んだ。
それきり、そこから動けずに居た。
この世の崩壊の因子となるかもしれない兄を持ったという荷。
その男をどうしても憎みきれないという荷。
止める事も出来ず、逃げることも出来ず、人を頼る事も出来ない。
ただ、圧倒的な背中をずっと見上げていた。
市はふと言葉を紡ぐのをやめ、長政の表情を窺い見た。
ただ、固まったまま、何の変化も無い。
じっと、真摯に聞いている。
市は再び俯いて、震える指を擦り合わせた。
「……でも、兄さまは、方法、と言ったの。それが、市の中でずっと大事な事だったの」
方法なら、選択されたものだ。
生まれついて持った悪徳ではない。
世を統べれば、また違う方法を望むかもしれない。
そうしたら、きっと長政とも―
「だが、その選択自体が度し難い」
長政がきっぱりと断じた。
昔、迷いの無かった頃の長政の、果断な声音だった。
市がはっとなって顔を上げると長政の目に生気の炎が戻っている。
長政も真っ向から市の目を見た。
「礼を言うぞ、市。話しにくいことを全て聞かせてくれて」
長政がすくっと立ち上がった。
決然とした瞳で、ここではないどこか遠くに視線を馳せている。
市は呆然と座ったままそれを見上げていた。
きりりと立つ長政の姿は光を放って見えた。
それは彼自身の、決意の光だ。
「私は、兄者に反旗を翻す。
戦国の魔王を削除して、浅井の正義を天下に広く流布するっ!!」
すらりと剣を抜いて天を仰ぐ。
市は、尤も恐れていた事態となった事に顔色を蒼白にした。
違う。
そうではない。
歩み寄って、欲しかった。
兄の思想が罪だと言うなら、長政に変えていってもらいたかった。
この考えは、甘えだったのだろうか。
やはり、己は罪深い身であり、全てを失わず、良い未来が欲しいなど、傲慢だということなのか。
「長政さま、決めた、事なの」
「ああ。これ以上己の身を揺らがしてはおけない。今から即、下の者達に号令してくる」
市の方を一瞥もせず、きびきびとした歩みで、戸へ向かう。
だが引きかけて、ふと動きが止まった。
背を向けたまま、小さい声が云う。
「……私は、本当はもう狂っているのかもしれない。
そなたが望むなら、織田へ送る。
……けして恨みはしない。
むしろ、今まで耐えてくれた事……深く感謝する」
乱暴な音と共に戸が閉められ、廊下をばたばたと駆けていく足音が、徐々に小さくなった。
市は両手で顔を覆った。
また、止める事が出来なかった。
あの兄に、長政が敵うとは思えない。
己の言動が、夫を死に追いやってしまうのか。
仮に長政が勝利したとして、信長が死に、市一人が現世に残されるのか。
一人、消えない罪だけを背負って。
それは底の知れない恐怖だった。
「……でも、いいわ。市が、いけないんだから」
にわかに騒々しくなってきた城内をふらふらと、市は己の部屋まで帰った。
部屋の隅に立てかけられていた、布製の包みを解く。
鈍い色をした薙刀の刃が虚ろに光った。
「本当は、ずっとわかってたの。
いやだったけど、絶対、いつかこうなる事……
ふふふ……あはははは……!!!あなたは…どんな顔をするのかしら……?
……兄さま……」
市は薙刀を引き寄せ、抱きしめた。
微かに、血が高揚している。
この状況で、喜ぶ事など一つも無いはずなのに、昂ぶっている。
これが、魔物の血か。
自己への嫌悪感に眩暈がした。
あのまま年越しも何だったので少し進展させました。
やっと長政が持ち直しました。彼本来の狂気を取り戻しました。(どっちにしろ狂気かよ)
ここへ来て、一話目(凶兆ですな)での出来事とかに触れてます。
一個前の話(決壊ですな)とも続いてますし、これから読んだら色々とわけわかんないですね。ちょっと繋ぎみたいな話になっているので。
不親切な構成で申し訳ないです。でも何が申し訳ないかって言ったら、この次の話がついに姉川、じゃないところです。あと一話(か数話…)、挟まります。
どんだけ長げーんだよ!!本当、お付き合いくださっている方には足向けて寝られません。本当有難うございます。嬉しいです。
それでは、読んでくださった方ありがとうございました、お疲れ様です!