先頭に立ち、自ら敵陣を割いていく。
真っ先に城壁を登り、敵将を討つ。
彼に呼応するように軍の兵は吼え、それに付いて行く。
誰にも自分を守らせない。自分の強さだけを頼みに戦う姿には、死への驕りすら見えた。
そんな軍を目にするのは初めてだった。
そんな大将は見たことが無かった。
横で軍を進めながら、劉備は半ば呆然とする思いだった。
男の名は孫堅。
呉郡富春の出であり、つい数日前この討伐軍と合流した。
若き日の海賊退治の武勇伝が有名らしいが、劉備は今日まで知らずにいた。
耳にしたことがあるという関羽にその概要を語ってもらい、劉備は二度驚くこととなった。
孫堅が17歳の若者であった頃のある日。
父との船旅の途中、銭唐の港で海賊達が戦利品を広げ、分配を行っている場に遭遇した。
勿論、人々は見て見ぬ振り、遠巻きに眉をひそめて足早に通り過ぎていくだけ。
誰も、わざわざ係わり合いになぞなりたくないに決まっている。
「あの賊ども討てるな。退治してきて良いですか」
彼の父も、まさかそんな事を言い出したのが横を歩いている息子とは思いもよらぬ事であったろう。
「お前が首を突っ込むべき問題ではないだろう」
慌てて制止するが当の息子は聞く素振りもなく刀を手に既に河岸に飛び降りていた。
孫堅は一人その場で手を東西に振りかざし、あたかも官兵がこちらへ向かってきているのを指揮しているかのように見せかけた。
まんまと信じ込み、慌てて逃げる海賊。
しかしここで満足すればいいものを孫堅は逃げる彼らを単身追いかけ、首級を上げて帰ってきたという。
「それじゃあ彼の父親もびっくりしたろうなぁ」
「この事により、彼の知勇優れることは世間に知られる事となったようです」
劉備の感想は少しずれたものに思えたが、関羽は特に気にはしなかった。
「勇猛さを虎と例えられもする様ですよ。しかし兄者、何か気にかかることでもあるのですか?」
「いやぁ?同じ軍とは頼もしいことだなと思うよ」
関羽に礼をいい、一人今の話を反芻する。
―正気の沙汰じゃない
どうしてもそう思えた。
海賊を逃がすところまでは良い。
成功する公算あってのことだ。
だが、逃げる者をわざわざ深追いする必要があるだろうか。
その場の窮地は脱したというのに、更にわが身を危険にさらすような行為だ。
海賊達が、追ってくるのが青年一人と見て、身を翻したらどうなる?
咄嗟にそれだけの策を講じることが出来て、そんな想像力もないとは考え難い。
(あるいは、私の洞察力の不足だろうか)
武に優れ、咄嗟の頭の回転も早い男が、将であることにも構う様子もなく、進んで矢面に立つ。
不思議で仕方がなく、劉備は孫堅という男が気になり始めた。
凱旋の後であるから、酒が振舞われ宴が執り行われる。
劉備が傍に寄り他愛も無い話を振っていくと、孫堅は屈託無く会話に応じた。
物腰に荒々しいところは無く、穏やかで、酒の飲み方も同様である。
ただ、酒以外、何らかの原因により、目がどんよりと曇りを帯びている様に見える。
口振りにはどこか不遜で高慢さがあったが、人の良い劉備は苛立つ事も無く、素直に頷きつつ話を聞いていた。
彼は見たものやこの戦で会った人物など遠慮が無く辛辣な評を下し、その場に居ないとわかっていても、聞いている劉備のほうがハラハラする場面もあった。
「私の事をどう評されるかなどはお聞きしないほうが良いでしょうなあ」
「同じ戦に出ていたんだったな。豪傑を二人連れているのは見た」
「雲長と、翼徳でしょう。あの二人は本当に強いし、心根の良い者達です。
彼らが居ないと私など何も出来ないで居るところです」
嬉しそうに言う劉備を孫堅は何も言わずただじっと見ていたが、言い終わり、少しの間の後口を開き
「全てをキレイに片付けようとして足手まといになるだろうな、あんたは」
と言った。
劉備がきょとんとしていると、その目の前に手を翳した。
「何も根拠も無く侮辱しようというんじゃない。
誰にだって気をつけるべき点はあるし、あんたの場合は甘さだってだけだ。
初対面の俺でもはっきりとそう感じるのだから、余程気をつけないといけない」
劉備は項垂れ、言葉に詰まった。
確かに自分には堪らなく甘い部分がある。
平生日々自戒しているからこそ、人に指摘されると必要以上にどきりとした。
元々心根が真面目過ぎ、思いつめやすい性質である。
「ご尤もであり、お恥ずかしいことです。
…ただ、私も孫堅殿を見て思うことがあるのですが、お聞きして宜しいでしょうか」
「ん?何だ、言ってみてくれ」
「失礼に当たるかもしれません」
そういうと口の片端を歪めて笑われた。
気分を害したわけではない様だが、硬い口振りにからかうような気持ちが生じたらしい。
「明日には忘れてやろう」
「…確かに、私は情に甘えているところが大きいかもしれません。
しかし、そうでなくとも、兵達は私達を信じ、死地に着いて来てくれているのだから、私達は彼らを出来る限り守らなくてはいけないでしょう」
「最もだな」
「…孫堅殿は、死が恐ろしくは無いのですか」
劉備は、眠たげに見えた孫堅の眼が、明らかに色の調子を変えたように思えた。
同時に、ゾッとするような冷たさがこの男にはある、と感じる。
虎と呼ばれる訳は、武勇によるのではないのかもしれない。
劉備は息苦しいとでも言う様に眉を顰めた顔で言葉を吐き出した。
「あなたは私と違う。武勇に優れているし、知に長けている。乱世を行く才能を確かに持っている。
だからこそ」
そこまで言って黙り込む。言葉を捜しているようだった。
孫堅も何を言うのかと、言葉を差し挟まずに待っていた。
「あなたは乱世を…収めようとしなくてはいけない。
そうやって…乱世を弄んではいけない」
言い終えると、自分で言っておいて劉備は身をたじろがせた。
何を言っているのか自分でもよくわからない。
孫堅が乱世を弄んでいると、思っては居ない。
それがどういう行為なのか、説明しろといわれても出来ないかもしれない。
孫堅はただ表情も無く一人で慌てる劉備を見ていたが、ふと笑みを漏らした。
「どういう意味か、もう少しわかりやすくご教授願えないかな」
「いえ、失礼しました」
「何を謝る」
孫堅が少し身を起こすようにすると、劉備が軽く後ろに引いた。
意識したわけでなく、体が反射的にそうした。
本能が、一定の距離を保とうとしたようだった。
虎に近づくな、とでも言うかのように。
「怖いか?俺が」
「そのような事」
半ば叫ぶような声に説得力は無かった。
孫堅はのどの奥からくすくすと笑い声を漏らし、起こしかけていた身を落ち着けた。
劉備が安心したように、大きく息を吐く。
ただ、体の緊張は完全には解けていない。
しかしどんなに動揺していようと、孫堅の目に劉備は凛として映った。
自分などより余程。
己も肝は据わってはいたが、意志の強さからではない。
逆に不真面目故ではないか、と思えるフシがあった。
それこそ、何かを弄んでいるのかもしれない。
「確かに、俺には愚かしい部分があるな」
そういうと劉備はハッとしたように、人の良さそうな困り顔になった。
「愚かだと言ってるのではないのです。
済みません、私こそが愚か故に上手く言えないだけなんです」
孫堅が眉を顰め苦笑した。
「一々謝るな、話ができんだろ、どうしたいんだ」
「済みません」
「お前のように生まれ付けば良かったんだがな。
どうも俺の不真面目はお前の謝り癖と同じで、なかなか治らんな」
劉備はというと、のぼせた様に顔を紅潮させて俯いた。
また甘ったれた、偽善じみた、理想論を他人相手にぶってしまった。
いくら年を重ねてもこの青臭い部分が治らないのだ。
自分よりも大分年長で、ただ、今同じ軍であるというだけの相手にどれだけの生意気を働いたのかと考えると恥ずかしくてたまらなかった。
孫堅はそんな様子の若者を見るのが面白く、また、そうやって面白がってしまうところが己の大きな欠陥であろうと自嘲した。
彼の言うことはこの上なく正しく孫堅の傷を突いているはずなのだが、痛みを特に感じはしない。
極めて真摯に事に当たっているつもりでも、どこかでまだ自分が笑っているのを感じる。
この世の乱れを哀しいと思う。
か弱きものが苦に喘ぎ、下らぬものが富を得、笑うことが良くないとも思う。
その気持ちに嘘は無い。
ただ、一方で乱世に生まれついたことを僥倖と感じている。
多くの人の死の上にあるはずの、戦の勝利が楽しくて溜まらない。
自分ではその気持ちを厭う訳でもなく、悩んでいるわけでもないが、彼の周りの生真面目に生きる者達には――孫堅自身が気にしては居ないことも含めて――我慢がならない部分があるらしい。
「生まれ持った、俺の空洞だ」
劉備のような存在は孫堅には信じがたく、理解しあえるとも思えない。
口先だけならわかる。よく居る輩である。しかし、本心からであるとしたら。
そうも、愚かしさを普通、人間は保てはしない。
日々戦場に立ち、下らぬ覇権争いや裏切りやを目にし、それでも高潔を保つなど、余程愚鈍か、盲目か。見てみぬ振りが上手いのか。
本当なら歯牙にもかけないところだが、あるいは曲者かもしれない。
およそ対極にあるからこそ。
「俺には、乱世を収めた、その後は見えない。
だが、お前の場合はその先こそに、幸福があるんだろうな」
「孫堅殿」
劉備は知らず、胸を締め付けられるような思いを味わった。
平和な世に生きる自分を想像出来ない男。
ではどこに救いがあるのだろうか。
誰が、彼の空洞を埋められるのだろうか。
「そんなことはきっとありません。あなたにだって…」
言葉は酷く空虚に響いた。
孫堅がまた楽しそうに笑った。
<了>