「本題を言え」

突然切り出されて私は内心どきりとした。
動揺は、先からの聞いているような、聞いていないような顔をしていた信長公が突然、視線を真っ向から向けてきた事にも由来する。
この眼は苦手だ。得意な人間なぞ、居らぬかも知れないが。

「は、本題、ですか」
「貴様が今だらだらと連ねている辺りは元々双方承知の話の筈だ。
わざわざ出向くには他に直接で無いとまずい用事があるのだろう」

そうでないと承知せぬと暗に含む語調。冷や汗ものだ。
だが、その通りだ。
話すべきことを話さねばならない。

「では、失礼致します。実は、私が個人的にお話窺いたく思ったのです」
「本題と言ったはずだ。前置きはよせ」
「兄者は正義でしょうか、悪でしょうか」
「は」

一言、言ったきり絶句してしまった。
私は返事をいつまでも待った。
暫くして出された声には、苛立ちはなくなり、代わりに呆れたような色が混じっていた。

「その様な質問の為にわざわざ面を見せに来よったのか」
「私にとっては大変大事な事なのです。最近ではその事ばかりに悩んで、進退窮まっておりました。
私は、我々は正義の道を歩んでいると思っていた。しかし、実際我々が一歩進むごとに膨大な犠牲が出、罪も無い者達が泣き、兄者は悪名を轟かせるばかりだ。私も魔王の犬などと詰られた。
正義とは何なのですか。混沌を力で正そうとする事は、正義ですか、悪ですか」
「余は説法師ではないぞ、長政」

信長公が、明らかにうんざりとした様子で吐き捨てる。
私をただの馬鹿と思っているかもしれない。
だが、ここで引くことは出来ない。
どうせ、切り出してしまったことは無しには出来ぬのだから。
私は折り目正しく座ったままで、出せるだけの熱意を出して言葉を重ねた。

「説法のような、上辺の言葉はもとより望んでおりませぬ。
兄者とて、信念の元に戦われておられるはずだ。それをお聞かせ願いたい。
ご自分の為さり様を、どう思われているのか」
「こちらこそ聞きたいのだが、正義とは何だ」

逆に聞き返されて、言葉に詰まった。
それが、わからないのだ。
しかしわからなくなったのは最近のはずだった。
それまでは頑なに信じてた、一つの定義があったはずだ。

「いいか長政。余は形の無いものには一切頼らない。
正義などその中でも特に拠り所の無いぼんやりとした言葉だ。
定義など用いようとするから人は誤るのだ。余は正義など知らぬ。
そんなものは本当の犬にでもくれてやれ」
「では、兄者は何に基づいて行動されているのですか」
「己以外の何に基づいて行動する」

そこで一度言葉を切った。
私と彼が座しているきりの部屋の中に痛いほどの静寂が訪れた。
―定義つけること事態が、愚かしいと、そういう事か?
では、正しさなど、存在しないと?
そんな筈は無い。
人には、心がある。
そこには生まれ持った、善と、悪の定義が存在するはずだ。
でなければ、愛も、憎しみも、生まれまい。
信長公は、どちらも持っていないとでも言うのか。
そんな事は、有り得ないではないか。

「善だから為す、悪だから為すではない。己が為さんと思うから、為すのだ。
そうでなければ、既存のものを選択するだけで生が終わるぞ」
「だが善悪は存在する!!
盗む事、咎無く殺すこと、誰もの心がそれを悪だと知っている!!
兄者は、決まりきった悪でも、為さんと思えば為すのか!!!
もし、天下を取るということが、大いなる殺戮の上にしか有り得ぬとすれば、それをするのか!!!」

気が付けば声を荒げていた。
外で何事かと訝しがった者があったかもしれない。
だが、私の心は余裕が無かった。
信長公も、段々とその青白い目の中に激した炎を宿らせ始めた。
私が怒鳴り終わると同時に、片膝を立たせ、身を乗り出す。
もとより私を頭一つ優に超すような大男だ。殺されるような思いだ。
激情のまま首を刎ねられるやも知れぬ。
だが、もう知ったことではない。

「では、殺戮抜きでどう世を変える」
「それは……今すぐ、お答えする事が出来ません。
正直な話、私にも見当がつきませぬ。
ですが、兄者の為さり様は他の勢力と比べても群を抜いて残酷だ。
ああまでも、苛烈に攻めなさる必要がおありか」
「では長引かせるか。他の勢力とやらの如く、うだうだと虫けら一匹までも目を配るか。
はっ! 直ぐに老い、次の代だ。何時まで経っても何も終わらん」
「虫けらとは、民の事か信長公」
「長政、貴様聖者か何かのつもりか!!
殺さずに天下を治めるなど、そんな事が出来る奴が居るなら神だ。
人に為し得る業ではない。この信長とてその様な業は不可能だ。
下天を逃避するつもりなら、貴様が抱いているような夢想に浸かっておれば良い。
だが、この世に立つつもりならば、薄汚い理想は捨てろ!!!」

聖者、神、夢想、薄汚い理想。
能う限りの軽蔑がそこに詰め込まれていた。
私は泣いた。
怒りでも、悔しさでもなかった。
ただ、何かが壊れた事が哀しかった。
声を出さずに肩を震わせている私を、信長公がどんな顔をして見下ろしていたかはわからない。
俯いて、己の膝しか見ていなかったからだ。
だが、断言できる。どうせ平生と変わらなかったのだ。
何も、感じて居ないに違いあるまい。
涙に対する、男としての侮蔑すら。
だから私は構わず涙を流し続けた。
何を言っているか伝わればいいが、と思ったが、やはり声は震えていた。

「理想も、夢も、捨てろというのか、私に」
「捨てて、今までのようにやれと言うのか」
「……それでは、我々の為している事は、ただの…暴力だ。ただの暴力なのか?」

壊れたように一人で呟き続けていた。
返事が無くても、止める事が出来なかった。
信長公に話しかけようというつもりも無い。ただ、内心の絶望を吐き出したかった。
有り得ないとわかっていて、それでも誰かに違うといって欲しかったのだろう。
誰かといっても、ここには信長公しか居ない。
信長公は言葉をくれない。
私は独り夢想を両手に抱えて、捨てたくないと駄々を捏ねていた。

「兄者は、そうして理想を捨ててしまわれたのですか」
「何」
「夢想と片付け、諦めてしまわれたのか。嫌だ。私は、出来ない。
これを諦めるのならば、命を賭してまで戦う意味など無い。
無為な暴力を振るわんが為だけに、死に相対する事などできない。
信じてきた正義のため以外に、この身を賭す事などできない。
何故、正義は暴力の上でしか為しえないのですか。誰もが望む事のはずなのに。
誰もが私に同意して、しかるべきなのに。
私も、殺戮もやむなしと一時は割り切っていた。
だがそれは間違いだった。それでは足元に死体しか残らない。
兄者。兄者はそれで良いのですか」

目の前で信長公がまた腰を落ち着けた気配があった。

「貴様何を言っているか、自分でわかっておるか」

わかっていた。私は無茶苦茶を言っている。
思考がぐちゃぐちゃで纏まらない。心が乱れ、言葉を整理する事も難しい状態だった。
己の正当性を訴えたかったが、自分でも正しいのかがわからないのではそれは不可能というものだ。
呆れられている、ともすれば見下されているという思いが冷静さを取り戻す枷になっていて、私は屈辱に雁字搦めにされたまま身動きもままならなかった。

「どうあっても捨てられぬなら、思考を一度放棄しろ」
「……それは、どういう意味ですか」
「傀儡となれ。犬と呼ばれようとも揺れるな。その方がマシだ
余の都合で言うのもあるが、貴様が死にたくなくばな」

私はそれを告げられた瞬間、初めてはっきりと背信を意識した。
次の信長公の言葉で、それは諫言のつもりであったのだと、わかる事になる。
だが、私は、聞くなり、脅迫と受け取った。
言わば、勘違いからの発意だった。
そしてこの時点ではまだ、まさか、という程度のものだった。
一瞬、疑われたのか、と誤解に胃の腑を冷やしただけだった。

まさか意識に居付き、私の脳を乗っ取ると、は思いもしなかった。

「違う。余や、他の誰が手を下すまでも無く、貴様自身が貴様の命を削る」

私の思考の奥に、一度叛意は仕舞い込まれた。
それ以降、何を話したかよく覚えていない。
二言三言交わした後に、会談を終わりにしたのだったと思う。
ただ、目だけは覚えている。
信長公は逸らしもせずずっと私の眼を見ていた。
やめて欲しかった。私は、彼の眼が苦手なんだ。
何を思って見られているのか全く悟れぬ。
唾棄すべき敵も、本来なら愛すべき家族も、全て同じ、この眼で見ているのだろう。
ずっとそれに晒されるているとどうなるだろう。
市。

「市も、来ているのだったな」

私の思考の上に市の名が上がったとほぼ同時に、信長公が、そう私に聞いた。



「はぁ。お会いになりますか」
「少し話す。呼んでくれ」

市を呼んだ。
信長公が呼んでいると言うと、微かに眉を顰めた。
怯えている様子だ。信長公にか。それとも、尋常ならざる様子の私にだったのか。
連れて行っても、俯いたまま声も掛けない。
信長公も黙ったままだった。
誰も口を開かない。
不思議に思ったが、私が訪ねることでもない。
落ち着かず身じろぎしていると、やっと、信長公が口を開いた。

「長政、悪いが外してくれ」
「あ、これは気が付きませんで」

言って出たものの、私は先の話で、既に不安や自己嫌悪、被害妄想の虜になっていた。
私抜きで何を話すのだ。
わざわざ私に外せとはどういうことか。
どう見てもきょうだい水入らず、などといった空気の二人ではない。
何だ、何を話す。

立ち去った振りをして、壁に張り付いた。
鼠の様に。
聞き耳を立てた。
市のか細い声が聞こえる。

「……お久しゅう、ございます」
「どうだっていい。貴様、長政とは、上手くやっているか」

私の名前が聞き取れ、その時点で私は眩暈の錯覚を覚えた。
何気ない会話とも、思えなかった。
飛び出て、何の話だと問い詰めたい気持ちを必死に押さえ込んだ。

「……はい。よくして、もらっております」
「真か。あやつと、寝食共にして居るか」
「……兄さま?」
「なればあのザマをどう思う」

鋭く、一段と低い声は、外からは聞こえ辛い。
それでも、不思議なくらいに、はっきりと全てがわかった。
実際には私は殆ど、市と顔をあわせては居なかった。
あちこちから、ひそひそと聞こえてくる声。

―浅井長政は美女を送られ、織田に尻尾を振った。
―信長の妹は、佇んでいるだけで男を誰も虜にする。浅井にも身も世も無く狂っている兵が幾人も居る。
―腑抜けは御しやすいからナァ。そこまで考えの内なのではないか?

……断じて違う!!!!
私は市を近くに寄せなかった。
充分な待遇もしたし、偶に顔も合わせた。話もした。
だが、色香に迷ったりはしていない。しよう筈も無い。
私は自分を律せる。その証明に意地でも優しくする姿を人に見せなかった。
周囲に見せ付けるように、そっけなく扱った。
市が不憫とも思ったが、いずれいいようにすればいい。
現にそれを不満と言わないではないか。わかってくれているのだ。
来る前に一度声を掛けた。

(市、兄者はどんな方なのだ。お前はあの人をどう思う)

そう言うと、市は身を震わせてますます俯いた。
市は兄の話をしたがらない。
その話題に触れるだけで、恐怖にものも言えないような顔をする。
今も、そんな様子で居るのだろうか。

「……長政さまの、様子?」
「あの目つきは最早正気のものではない」

市は返答を返さなかった。
私は正気であると、言わなかった。
何故だ。私は、市の眼に、どう映っていた?
あたまの、おかしい人間としてだったのか。
そんな様子を見せなかったのに、内心私を狂人と疑っていたのか。
そうでないなら、反論をしろ。
大体、目つきを言うなら信長公ではないか。
あの男の方が、余程狂人らしい。
何故あんな目をした男に、私が異常者呼ばわりされねばならないんだ。
私は断じて正気だ。傀儡になどにだってなりはしない!!

「……ごめんなさい。市、よくわからないわ……。」
「よくよく、目を離すな。動向に異常なところが無いか見ておけ」
「……でも、市どうすれば」
「知らせろ。狂うだけなら構わん、殺しはせん。
狂ったのを殺せば俺の周りは死体だらけになる」

くすくすと、二人が笑う声がした。
私は市の笑うのを、聞いたことが無い。
笑顔に興味がわいて、隙間から覗き見た。
一瞬状況を忘れるような美しい笑顔だった。

「それは兄さまが、狂ってるからだわ」
「狂気が俺の心臓だ、是非も無いことよ。
だが、脳が冷えているから俺は狂ったまま思考も働くのだ。
長政は違う。脳が熱にやられている。あのまま脳から壊れて不能になるぞ」
「……うん。市、気をつける。市は、長政さまが好きだから」
「はっ。まあ、それだけよ。言い置いたからな、帰れ」
「うん。じゃあね、兄さま」
「まだ貴様、余の妹のつもりなのだな」
「……え? だって、そうでしょ? ……違うの?」

市が、一人夜道に放り出されたような声を出した。
何故、ああも不安げな声を出すことがあるのか。

(正直な所、私は今、あの人が正義なのか、悪なのか、悩んでいるのだ。
妹だったならば、少しは会う機会もあったのではないか。どんな人物かも私よりはずっとわかるだろう)

市は、知らない、といった。兄の事は、何一つ、知らないと。

(きょうだいは、大勢居たから……。
市は、ずっと部屋に居たし……殆ど、会った事とか、無いの。ごめんなさい)
(そう言われると、実にそうらしいな。
いや、いいのだ。どうせ直接お会いする。
念のため、聞いただけだったのだ。悪かったな)

あれは嘘か。
何故嘘などついた。そうまでして隠したかったのは何だ。

「兄さま……?」

市が縋る様な声で何度も兄を呼んでいたが、信長は煩そうに適当な返事を返していた。
信長が市に触れるのではないかと思った。
そう思うと気が狂いそうになった。
近親相姦めいた妄想。だが嫉妬とは違う。
一人除け者で、私だけが真実を知らず足掻いているのではないかという、圧倒的な孤独感があった。
信長の事を、市はわかるのではないか。
わかっていて、私には黙っている。
裏切られている気分だった。信長にか、市にかもわからない。
どちらも、私を、裏切るほどに信頼のある関係ではなかった。

だが、私は二人とも好きだったのだ。
どちらにも、誓って二心は無かった。

信長は常人と一線を画した思考の持ち主で、魔王などという通り名だけが膨張し、その奥底に正体を隠している。
噂が流布し、人口に膾炙すればするだけ、実際どんな人間かわからなくなる仕組みが出来上がってしまっている。
市は、素直に人の話を聞き、受け答えもするが、心はぴったりと閉ざし、いつだって一人だ。
立場上深入りできないし、すれば実際に美しさに眩みそうな恐れもある。
私には考えなくてはならぬ事が多すぎて、女の肌は男に安らぎを与えすぎる。

両者とも、私には理解しがたい人間であった。
だが、わかりたかった。共に理想の世を為したいと思っていた。
だというのに、今独り聞き耳を立てる立場にいる。
何故だ。
私をわかろうとしてくれる人間はいない。
何故だ。

二人だけで笑うのはやめて欲しい。
私がここにいるというのに。
記憶が切れ切れになる。




気が付けば帰路についていた。
屋敷に戻ると夜が更けていた。
この先はあまり語りたくない。
だが、時間は戻らない。
やってしまったことは無かった事にはならない。
私は市を犯した。
夫婦だが、犯すという言葉が相応しい。
熱が去ると、吐き気だけが残った。
市は体を丸め、震えながら泣いていた。生娘だった。
私が指一本触れていなかったのだから。
私の下衆な迷妄は打ち砕かれた。
元々本気で疑ったわけじゃなかった。
ただ、どうかしていたのだ。

泣いている市を置いて部屋を出た。
慰める言葉など無い。謝る心も。
だが、許されず、あの場にいるのは私が耐えられない。

何もできない。私は無力だ。
力が欲しい。あの男のように、思うままに事を為せる強大な力が。
私なら、正しく使う事が出来る。
何故、神は信長公に力を与え、私には理想だけを与えたのか。
絶対に私が正しいのだ。あの男は間違っている。
だというのに、私は吠え立てる事しか出来なかった。
人を虫けらと呼ぶ男に、妻の前で気狂いと断じられた。
私だけが惨めじゃないか。
私はいつからこんな無様な男になってしまったんだ。

抱いていた理想の世が閃光の如く目の前をちらつく。
だが、触れる事は出来ない。

酷く寂しい。










我ながら読みたくねーーーこんな話!!!!
注意書きもっと細かくしたかったんですが、何だろうこれ、信市で長市なのか、信←市←長なのか、長市+信なのか、実はいっそ信長政なのかもう自分でもわからなくなってしまった上に、実際にはこの場にまともな恋愛感情を抱いている人物は一人も居ない訳だし、長政がおかしいです注意!!ってのも変だよな、全員おかしいんだから。
まあ、話が中途半端なものなのが悪いんですよね。申し訳ありません。
まあ、頑張れ長政!みたいな話です。頑張れ長政。
こんな話でしかも無駄に長いものを、読んで下さって有難うございました。お疲れ様です。
まだ続きます。