簡単な、一揆勢の鎮圧戦だった。
それでも戦は戦。出陣の準備に追われてばたばたと駆けずり回っていた浅井勢の或る一武将は、見渡した軍内にふと違和感を感じた。
容貌の整った女が一人、ちょこんと男勢の中に混ざっている。
我が目を疑い、二度三度と見直したが、どう見ても君主の妻であるお市であった。
「お、お市様、この様な所に何故」
「うん、市も戦に出るの」
「何ですと? いや、まさかそんな」
動揺に目を白黒させている男の前で市は動じる様子もなくきょとん、としている。
彼女が浅井に嫁いだのは本より織田と浅井の同盟をより強固なものとする為のものであった筈だ。
その同盟相手の妹である市を戦場に出したりなどと、到底常識では考えられないことだ。
第一女の手を借りねばならないほど、悲壮な軍の状況ではない。
一体、長政は何を考えているのか。
「な、長政様は何と仰っておいででしたか」
「……長政さまには、内緒で来たの」
さもありなん。男はやっと得心した。
長政がその様な事許すわけはなかったのだ。
ならば今から市を長政の下へ引っ張って行かなければならない。
「だから怒られたけど、一緒に戦っても良いって」
「な、何とっ」
これには度肝を抜かれた。
それでは結局、承知の上であるということではないか。
男は言葉を失い呆然としていたが、主の決めた事なら、仕方ないと思い直した。
微かに、新婚で色呆けでもしているのではないかとの疑念が頭に浮かぶ。
だが、ああも普段病的に正義を唱える男にそんな人間味があったとは。
(人と言う生き物はどうあっても滑稽な事だ)
どうせ最奥に置き、部下達に守らせ、ただその場に居るというだけで実際に殺し合いの場には及ぶまい。
「では、出すぎた言葉ではありましょうが、長政さまの仰るとおりになさり、くれぐれも御身用心なさってくだされ」
「ありがとう。……あなたも、頑張って、ね?」
男心の中心を揺らがすような強烈な媚の含まれた声で囁かれ、男は己の耳朶が燃える様に熱くなっているのを意識した。
微笑みかけられれば、命でも投げ出してしまいそうだ。
あくまで忠臣として物を言っていた自分が、一人の男であることを突きつけられたような想いであった。
だが男の胸の高鳴りもどこ吹く風といった様子で、市はそっけなく向こうを向いてしまった。
揺れた髪から花のような芳香が舞い、刹那、男は置かれている状況を忘れかけた。
ぼうっと後姿を眺めていたが慌てて我に返る。
「そうだ、進軍の道筋を確認しあわねば」
わざとらしく口に出して言って、また動き出す。
(しかし、お市様、どうして戦場になど)
ちらと疑問が浮かんだが、それは直ぐに忘却され、消えた。
「市!!」
市が長政の元へと戻ると、神経質そうに眉を顰めた長政がいかにも苛々とした様子で怒鳴り声を上げた。
「長政さま」
「勝手にうろつくな。どこへ行っていた」
「……ごめんなさい」
「戦場は元々、男のものだ。妻なぞを引き連れ、傍に置くのは本来全く感心できた事ではない。
加えて、君主である私が、お前を律せてないなどと思われてみろ。下の者共は不安になる。士気に関わる事なんだ」
身を竦めて謝り続ける市の姿を見ながら、長政はやはり待たせておくべきであったか、と己の判断を後悔した。
市は普段部屋に篭りきりで滅多に顔を出さない。
長政自身はなかなか構う事も出来なかったが、一応侍女達に、希望するものは出来るだけ与え、不都合や退屈のないように、と言い含めておいた。
だが彼女らが言うには何か欲しいものは無いか、したいことは無いかと聞いても興味なさ気にぼんやりとしているだけらしい。
それがこの度、戦を前にして長政が兵たちに対して演説をぶっていると、ふと視界の端に市が居た。
さぞ退屈なのではないかと思ったが、余所見もせずじっと聞いているようであった。
熱っぽく、いつまでも続く長政の正義に対する演説は余りにも理想論染みていて、非現実的であるのが常だった。
兵たちは、紛う事無く本気でそれだけの理想を唱える事の出来る、主自身の心を誇りに思ってはいた。
だが、長政のように本気でそれをなそうと、その考えに完全に同調している者は居ない。
長政の「絶対にそうであるべきだ」という信念と、他の者たちの「勿論そうであればそれに越した事は無いのだが」という気持ちの間の距離は、想像以上に遠い。
長政は心のどこかでその距離を薄々と感じ、無意識下に寂寥感を募らせていた。
だからといって諦めたり捨てたりする事は全く考えていない。
せめて己だけは信じ続ける事を固く誓っていた。
己が正しい。絶対に。だからいずれ周囲も同じ思いを抱くはずである、と。
市はそれを自分からやってきて、最後までずっと聞いていた。
そして戦に付いて行きたい、と言った。
何をするにも興味を持たない市が。
だったら、連れて行ってやろう。そう、思ったのだ。
本来は武器を持ちつけぬ、非力な民たちが手に手に武器を構え、暴動を起こす。
餓え、貧窮極まっているからだ。
対処として、こちらも武を行使して叩き潰す。
根本的解決には程遠い、心苦しい策であるが、致し方ない。
何も大名達は馳走に舌鼓を打っている、という訳でもないのだ。
実際には農民とそうは変らない食生活である。
粗食を口にし、費用を切り詰めに切り詰めて過ごしている。
それでも、槍が要る、弓矢が要る、軍馬が要る、鉄砲が、その弾が要る。
幾らあっても費用が潤沢というわけにはいかない。戦争とはそういったことだ。
誰もがぎりぎりの精神で、生きるのにぎりぎりの条件下にいる。
方々で爆発が起きるのも止むを得ない事だ。
いずれ太平の世となるまでは、力で対応するしかない。
長政の脳内にはこれだけの確固たる論理が存在していた。
だから抵抗なく人を切れた。
勿論、苦しい気持ちはある。だがそれを含めてさえ、痛みは残らない。
先頭に立ち、親や、妻や、子が待つはずの男達を次々と切り伏せていく。
それも、正義の為と信じている。
「こんな、ものか」
返り血を無造作に拭い、長政は息を吐いた。
生きて、抵抗しようという人影はもう見えない。
暴徒の集会所として利用されていた廃村は彼方此方に戦の傷跡を鮮烈に刻んだまま、今は沈黙している。
踏み出そうとして、謝ってぐい、と何かを踏みつけた。
下を見ると、肘から上のみになった男の腕である。不快な思いがこみ上げ、眉を顰める。
肘から下は、どこへ行ったのだろう。逃げたか、それとも離れたどこかに、同じく転がっているのだろうか。
色を失っているそれから視線を上げ、長政は歩き出した。
かさかさと草を踏み進む中、ふと物音を耳にして立ち止まる。
廃屋を覗き込むと、見覚えのある艶やかな後ろ髪が揺れていた。
市だ。
こんな、前線に、いつ来たのだろう。
長政はその疑問も解決せぬままに、異様な光景に思考を奪われた。
市より奥まった部屋の隅に、幾人かの一揆勢であったと思われる死骸が血の海に沈んでいた。
幾人かとは言ったものの、正確な数はわからない。
彼らの身体は千々に引き裂かれ幾つも人体の断片と化していたからである。
それらは一箇所に縮こまり、積み重なっている。
まるで追い詰められ、逃げ場を失ったかのように。
悲惨さと醜悪さはこの場に漂う死臭以上に吐き気を呼び起こす。
「よせ、女の見るものではない」
声を聞いて、市がゆっくりと振り向いた。
双頭に分かれた薙刀の先端から夥しい量の真新しい血が垂れ落ちている。
表情には、恐れも動揺も一切感じられなかった。
いつものぼんやりと眠そうな、どこか憂鬱そうな表情。
何か禍々しい、この世のものならぬ存在のような佇まいだった。
長政は息を呑み、こわごわと口を開いた。
「それとも、お前が殺したのか」
市はきょとん、とした様子でゆっくりと首を傾いだ。
「そう、だけど」
「……そうか」
そうか、としか返せなかった。
それっきり、掛ける言葉を失い、ただ、立ち尽くす。
血の匂いが、強く鼻を付いた。
先まで、長政も同じ事をしていた。
人を、殺していたのだ。
だが、市はただの女ではないか。
およそ武芸を嗜む柄には見えないし、例え以前経験があったとしても、あの惨状は何事か。
市が武器を両手できゅっと握った。
一度俯いたが、また顔を上げて長政を見る。
「……長政さま、見たい?
……どうやったのか……」
言うと同時に、辺りに異様な空気が流れた。
この世ではないどこかと繋がる扉が開こうとしている。
ぞわぞわと、足元で何かが蠢く音がする。
市の元々真っ黒な目が益々光を失い、虚ろになっていく。
「いや、いい。帰るぞ、市」
長政が慌てて声を掛けると、気配は全て去った。
現実の夥しい死が戻ってきた。
長政が先に廃屋を出ると、市もその後に静かに付いて来た。
長政はその姿を何度も確かめながら帰路に着いた。
その道すがら、不意に市から声が掛けられる。
「ねえ、長政さま」
「何だ」
「あの人たちは、どうなるの?」
「ああ。あのままにはしない。纏めて焼くんだ」
「ふぅん……ううん、なんでもないの」
市は内心ほっとした思いを味わった。
焼かれれば、皆、天へと昇れそうだ。
彼らはその身の咎と比べても、明らかに過度な苦しみを伴って死んだ。
あのままその苦痛を姿に留めたまま、朽ちるのを待つのでは残酷すぎる。
人を殺す事はなんともなかった。
やはり、という思いが大きかったが、それでもやはり絶望を感じた。
やはり壊れている。
彼らは大の男であり、選んで戦場に来ていた筈だ。
それでも恐怖を感じていたし、死を恐れていた。
(ねえ、あなたたちは……血は、怖い?)
(は……っ、はぁっ!?テメェ、何言ってんだ!?ああ、そりゃそうさ、怖ぇにきまってんだろ!!!
情けねぇ話だけどな、怖ぇよ、怖くてたまんねぇんだ!!死ぬのも嫌だし、殺すのだって嫌だ!!!
でもこうするしかなかったから、こうしてんだろう!!それで今テメェに殺されるんだよ!!
死ぬんだ!!死ぬんだよ!!!)
(そうね、死ぬのね)
(うっ……畜生、何なんだよこいつ……)
(おい、話すこたぁねぇよ無駄だ、イカレてんだよ、くそっ)
あとは悲鳴で殆どが聞こえなかった。
痛い、と何度か言っていたかもしれない。嫌だ、とか畜生、とかあと、誰かの名前。
死ぬとは、ああいうことだ。
長政は如何にも忌まわしげに顔を顰めた。
無感動なのは、市だけだった。
あの場で壊れていたのは、市のみであった。
(もう一人、同じ男を知っている)
知ったところで、どうすることも出来ない。
男はそれを己の強さの一端に変えているが、市にとっては大きな欠陥でしかない。
その事だけには、酷く吐き気がした。
「長政さま」
「今度は何だ」
「正義のお話をして」
「何」
煩そうにしていた声音が明らかに変わった。
顔つきはいまだ固く、神経質そうな眉間の皺も変らぬままだが、目が明らかに強い光を帯びた。
「あの、どんな世の中が来るか、とかそういうはなし」
「よし、市、お前感心だな。本来なら誰もの共通の理想であるはずだから、わざわざ口にするまでも無いんだ。
だが、言葉にし、心に描く事で、新たな意欲がわく。そういう意味はある。わかるか」
「うん」
「だから私も理想を口にするのが好きなんだ。不言実行が一番良いと思う向きもあるみたいだが、口にする事でいっそう輪郭が強まる気がするからな。
……いいか。正しい世の中になれば、こうして弱者が傷つく事はなくなる。
不幸せが悪を呼ぶのだ。皆が幸せであれば、悪は生まれない。
満ち足りていれば、盗む事も、奪う事も、殺す事も、必要なくなるからな。
世界を良いものにする。それが正義だ。
血は流れない。餓えも無い。人が本来生涯の内に得るはずの幸福を、誰もが得られる世の中だ。誰もが今、望んでいるはずの世界だ」
長政の熱っぽい弁はいつまでも終わりがないように思えた。
市はそれを聞くうちに、感情が震える気がした。
どうせありえない。
いっそ、そう断じてしまった方が、楽になれそうだった。
だが、信じれば、少なくともその想像をしている間だけは僅かに幸福を感じる事が出来る。
次いで出た声は、微かに震えていた。
「……市の、兄さまは、どう思うかしら」
「信長殿が? それは勿論、兄者とて同じ理想を心に抱いているだろう」
「本当に?」
「当たり前だ。市、もしかして兄者が魔王などと呼ばれている事を気に病んでいるのか?
彼が魔王と呼ばれるのはその手段がやや苛烈な所がある故で、彼の理想が魔物染みているからではないだろう」
「そうだったら、市もうれしいんだけど」
「だったら、とは何だ。お前の考えは違うのか」
「ううん」
市は慌てたように首を振った。
「頑張って、長政さま」
「当然だ。この身はその為にある」
市の声にどれだけ希望が込められているか、長政は気付かなかった。
市だけが自覚して、悲しくなった。
<了>
長政の勘違いは甚だしいって話ですね。(なんて身も蓋もなさ)
長政は生まれたその瞬間既に己の中に根付いていた、「性善説」を微塵も疑うことなく今日まで生きてきたので、悪の存在は"何かの間違い"なんです。だから、削除。これが基本的な思考ルーチンです。
そこへ来て、兄者は根っからの悪人なんで、この話はこじれにこじれます。もう、こじれるだけこじれます。
市も信長と同じ魔王の素養がちょっとだけあるので、長政の理論を(それはちょっと無いんじゃ)(もっと言えば片腹痛いわ)って思うのですが、それでもそうなったら凄くいいのに、って思ってる。人としての心も持っているから。
でもなりません。兄者悪だから。
こじれの限りを尽くさんばかりにこじれます。(言ってて楽しいのが自分だけなのが身に沁みる)
毎度の事ですが説明くさいばっかりで萌えがないですね。猛省します。
ダラダラ長い文章を読んで下さってありがとうございます。お疲れ様でした。