幼強い、焼け焦げる匂い。
柱が折れ、壁が崩れ、屋根が落ちる。
余りにもあっけなく。
建てた人間の意向も、重ねてきた月日も、今、中に居る人間達も。
何事も介する事無く炎はうねり、全てを包み込み、本能寺は灰と化していく。
濃姫はただ立ち尽くし、迫る喧騒や怒号をどこか遠くのものの様に聞いていた。
「蘭丸君……」
無意識に少年の名を呟く。
悲しい、という実感も沸かないほどつい先程に、彼は謀反者の凶刃に倒れてしまった。
(いけない)
ともすれば崩れそうになる精神を意識的に強く保とうと勤めた。
背後の男の存在が―ただ、居るというだけで―それを助けるように、濃姫の心を支えている。
男はただじっと、胡坐をかいたまま動かなかった。
押し黙り、いかにも不機嫌そうな顔ではあるが、それが平生の表情な為、今の感情は読めない。
(もう私しか居ない)
―彼を守るのは
「濃」
「はい」
一言名を呼ばれ、反射的に振り向く。
男は視線だけを濃姫に向けていた。
ほとんど睨んでいる様な視線。
「もういい、ここから出ろ」
「はい」
「違う」
男は眉を顰め、苛付いた様な顔をした。
返答の声だけで、己の思ったように相手が受けなかったと悟ったのだ。
男―信長は、殆ど口を利かず、利いたと思えば酷く断片的で、相手に相違なく伝えようという意思が著しく欠けたような所があった。
それで居て、相手がわからないような顔をすると、さも相手のカンが悪いかのように気を損ねる。
長い付き合いである濃姫でも、何がいけないのかわからない事もある。
今もそうだった。
濃姫自身が内心酷く狼狽していることも手伝い、思考がほぼ止まっていた。
「違う…?」
いかにも馬鹿を見る様に見下されるか、さもなくば怒鳴りつけられるか。
わかっていても、そのまま鸚鵡返しするしかなかった。
しかし信長は、いかにも面倒くさそうにではあったが、怒りを露にはしなかった。
「お前は、戦うつもりだっただろう。銃を気にした。
俺が言ったのは、ここを抜けろという意味だ。お前一人ならどこへと失せられよう」
濃姫はハッとした様に息を飲んだ。
夢にも思わなかった良人の言葉。
恐慌状態の心は、その言葉を理解する事にやたら時間を要した。
男が何を言っているのか。
それが何を―意味しているのか。
信長当人はもう伝わったと見たようで、濃姫から意識を外している。
既に出て行ったものと思ってるかの如く、濃姫の方を一瞥もしない。
「嫌です」
今度は信長が驚く番だった。
眠そうな目を濃姫にゆるりと向け、突如その目をカッと見開き、立ち上がった。
勢い良く濃姫の首を右手で強く掴み、そのまま彼女の体を強く壁に打ち付けた。
堪らず濃姫の口から苦痛の息が漏れる。
背を強く打ち、肺が圧迫されている。首はまだ掴まれているままだ。
左手で肩をギリギリと掴まれる。
戦場に出ているとはいえ、華奢な女の体である。
信長の加減の無い力で押さえ込まれては、そのまま折れてしまうのではないかと思われた。
濃姫を見下ろす双眸は激しい怒りにギラついていた。
だが濃姫は抵抗せず、体を強張らせたままだった。
強く見据えられ、このまま死んだのでもいい―
ぼんやりとそう思い始めたとき、声が降りてきた。
「ここに及んで、俺に逆らうのか」
今まで、良人に逆らったことなど無かった。
どんなに尽くしても、まともな賞賛の言葉すら、良人はなかなか口にはしなかった。
従順すぎるほど従順でも、それが当然であるという態度だった。
盲目に近い愛を示しても、当然夫婦にあるような程度の甘い時間も無かった。
それでも濃姫は自分の身を嘆いたりはしなかった。
ただ、信長に付き従ってきた。
それが今、逃げろという言葉を拒んでいる。
信長にしても虚を付かれる思いだっただろう。
「おい」
信長が再び声を掛ける。
濃姫が、口を利きたくとも苦しそうに息を漏らすのがやっとである事に気づき、ここで初めて手の力を緩めた。
濃姫が大きく喘ぎ、咳をした。
そのうち呼吸が整っても、きゅっと口を結んで下を向き、何も言わない。
白い顔を更に蒼白にして黙りこくっている。
「聞いているだろうが。答えろ」
無理に顎を掴んで上を向かせる。
濃姫は微かに震えていたが、声はしっかりとしていた。
「―か、上総介様こそ、お聞かせ下さい。
何故、ここに及んでそのような事を仰るのですか、何故」
信長の視線が、濃姫が言葉を重ねる毎に徐々に冷めていき、元の落ち着いた眠たげな目に戻った。
濃姫は酷く落ち着かない気分にさせられたが、もうここで言葉を止めることは出来なかった。
信長に反比例する様に、語尾に近づくにつれ、熱くなっていく。
「共に、死なせて下さらないのですか」
じっと聞いていた信長に動く気配があった。
思わず身を竦めると、耳元で落ち着いた声が囁いた。
「終わりか」
「上総介様」
「共に死ぬことに何の意味がある」
もう喉を戒めている指は無いが、喉が詰まったように答えを返すことが出来なかった。
「もう少し賢いと思っていたが、買い被りか!
信長が見る目も濁ったものだ!!」
芯から馬鹿にしたような、軽蔑すら孕んだ嘲笑だった。
「所詮は女か」
信長が引いて、身を離した。
濃姫は我と我が身を抱きしめるようにして壁を背に座り込んだ。
「感傷でものを言うか、濃」
濃姫は顔を上げ、信長を見た。
殆ど睨んでいるような―悲痛な表情。
信長は腕を組み、表情も無く立っていた。
「感傷で俺に逆らったのか」
「上総介様こそどうなのですか!
先に逃げろなどと、らしくない事をお言いになって、それは感傷からではないのですか!!
いっそ…道具と思って下されば良いのです」
必死に声を張り上げるうちに、顔に熱を感じた。
それが激している感情から来るものか、炎によるものなのかはわからない。
信長が微かに片頬を吊り上げ、笑った。
「無意味に死ぬよりは生きた方が良いだろう。
奴等、この信長はもう逃しはせんだろうさ。
だが、お前一人追っ駆けまわして殺しはせん、甘さもある」
戦の前や、機嫌の良い、偶の饒舌の時、濃姫と二人だと信長はふと、うつけと呼ばれていた青年期の頃の口調が混じることがあった。
濃姫はそれが好きだった。
「侍共なんてのは皆そうだ。
常識がどうの、古くからの慣わしがどうのと五月蝿く言いながら、ヤケみたいな死に方をしたりする。
馬鹿なんだな。死ぬより生きた方がいいというのは常識ではないのか? 例えどんな生でもだ」
いつの間にか濃姫が笑みを浮かべていたのを見て、信長が面白く無さそうに眉を顰め、また仏頂面に戻った。
「それでも逃げないか」
「ええ、ごめんなさい」
「どうせ独りで生を受けたのだ。ここまで来るのも独りだ。独りで死なせろ」
「駄目です」
濃姫が大きく被りを振り、軽くふら付きながら立ち上がった。
「愚か者、勝手に死ぬが良い!!」
信長は怒気も露に大喝すると、くるりと背を向けた。
濃姫はその背を数秒見つめた後、己も背を向け、堂を後にした。
それがお互いの見納めであり、この世の別れであった。
濃姫には分かっていた。
「独りで死なせろ」などと。
良人がわざと弱みを見せるようなことを言ったことを。
濃姫がそれに揺さぶられると思ってのことだろうと。
彼は元々、孤独を何ら苦と思っては居ない。
彼を慕い、懐く者がいても、愛する者が居ても、どれだけの家臣を引き連れようと、彼は孤独であり、誰もそれに触れることは出来ない。
彼が求めているものが人の情愛とは別のものだからだ。
求めていないものを幾ら与えても、ただ素通りして零れ落ちていくだけだ。
それでも良い。
”濃姫は逃げなかった”という事実だけが必要だった。
それが良人に何の感慨も抱かせないとしても。
死までのどれだけあるか判らない時間、彼の記憶としてあるだけで良かった。
濃姫はともすれば泣き出しそうになるのを必死で堪えていた。
炎が勢いを増し、どこからか大きな、倒壊の音が聞こえた。
<了>