平蜘蛛の名は知らぬものはいなかった。
その名の示すまま、潰れた蜘蛛の様などこか不様な容貌だが、不思議と目にした者を深く唸らさずにはおかない天下の名器であるらしい。
らしい、というのは持ち主である松永久秀がその容貌を秘するように後生大事にしまい込んだきり、誰がせがんでも決してその正体を明らかにしないからなのだ。
お陰で平蜘蛛は何年も衆目に触れる事なく、今では存在自体が曖昧模糊として知れないものとなってしまった。
それでも久秀は未だ数多の風流人の垂涎の眼差しを集めていた。
彼等は、平蜘蛛とはきっとこういうものでしょう、いや、こんな見た目でこうこうなのでしょうと、各々名器の正体を予想しては久秀に披露したが、松永はいつも笑うばかりで正解とも違うとも言わなかった。焦れて「本当はこの世にありもしないのでしょう」と言うものもいた。久秀はそれにもわらうばかりだった。
欲するもの、せめて一目と願うものは後を立たなかった。
そして奪おうと狙うものも。久秀はそのどれもが愉しみだった。
その日も一人の間者を捉えた。
命を絶てぬ様に轡をしっかりと嵌められた間者は随分とまだ若いように見えた。
捕らえられたことをまだ信じ切れない様子だった。
やれやれ、信長公にも随分と困ったものだよ。あれは誰にもお渡しする訳にはいかないし、お見せすることも叶わぬときちんとお伝えした筈なのだがね――はて。それともこちらの思い違いだろうか。方々で断りすぎてわからなくなってしまったよ。
久秀は一人芝居がかった仕種で首を傾げた。そして腰を屈めもせず、ただ床を見下ろして間者に話しかけた。
卿は織田のものだろうね。
答えは無い。
だが久秀は構わず続けた。いや、言わなくてもわかるよ。随分と腕が立つようだ。実際あとちょっとの所だった。これを言うことで卿を元気付けることになるかはわからないが――実に惜しかったよ。あと一歩の所まで迫っていた――はははは。まあ、そう睨むなよ。その腕で、その若さ。悲劇的だな。忍を見るといつも気の毒に思ってしまうよ。腕が立てば、立つほど――
獲物を完全に手中に納め、なぶる愉悦が猫撫で声に滲み出ていた。
間者は意に介さぬ態度を崩さぬ様努めた。相手の行動いかんに寄らず、とにかく死ぬまで一声も上げるつもりはなかった。
久秀はその様子を暫くじっと観察していたが、やおら間者の髪を掴み、軽々とその体を引き上げた。
今日は日がいい。私も随分と気分が晴れやかだ。これなら善良な行いにも耐えられそうだ。
久秀は、先から棒立ちになったままの配下の男に、こちらに来るようにと顎で示した。
彼を支えてやってくれないかね、うん、そうだ、そのまま歩けそうかね? それはいい。着いて来たまえ。
気遣わし気に聞こえなくもない声音。
配下の男にも久秀の意図するところがわからない。今までにも、わかった事など無い。
平蜘蛛をお見せしよう。
久秀は先を歩き始めた。男は追うしかなかった。
どこまでも、どこまでも降りてゆく。狭く、位通路は終わりを疑うくらいに長かった。
進めば進む程より暗く、より狭くなった。
入り口から暫くは人工の地下通路らしく柱を渡したり足場を平らげてあったりしたが、今は周囲は冷たく湿った土壁、足場は大小の石が転がり、間者と男は何度も足を滑らした。
下へ下へ降りながら配下の男は同じ事ばかり考えていた。すなわち、これから目にするであろう茶器の事を。だが不意に遮られた。微かな異臭。膠を作っている際に漂う臭いに似ていた。土がそんな臭いを発することもあるのだろうかと思っていたが、臭いは次第に濃くなっていった。獣の血と皮を大釜で昼夜煮続けていれればこんな臭気が生じるだろうか。むせ返るような強烈な臭いに込み上げる嘔吐感と闘うことを強いられる。
混乱する頭に、今度は聴覚より訴え来るものがあった。低い、繰り返し発される、蒸気のような音。確かに地の底から発されている様だった。尋ね様にも久秀の背は既に見えない。
男は不意に、来た道を戻りたくなった。一度頭をもたげた欲求は爆発しそうなまでに肥大化した。
逃げたいか。
間者が、男にだけ聞こえるくらいの微かな声を発した。
先に進んでくれ。見届けたい。
高く、幼さを感じる声だった。だが口ぶりには、死を受け入れた静かさがあった。
事実、近い死を免れはしまい。
男も久秀の下に身を置いているのだから、情に厚い性分ではなかった。
それでも逃亡への欲求は心の内から消えた。間者の体を持ち上げ直し、前へと歩を進める。
済まない。
俺も見たいんだ。それだけだ。
おうい。
久秀の声がした。明かりが揺れている。
いや、長らく御足労頂き済まなかったね。もう終わりだ。これ以上足を動かす事は無い。すなわち、到着、ということだ。ご苦労様。
突然開けた空間が現れ、久し振りにはっきり人の手が加えられているとわかる場所に出た。
人工的な洞穴には古びてはいたがあと数千年は朽ちそうもない頑丈な扉が取り付けてあった。
久秀が巨大な閂に手を掛ける。 ゆっくりと開いた内部から、熱を感じた。薄明かりが漏れている。
二人は憑かれた様にふらふらと脚が勝手に内へと歩を進めるのを感じた。
広く天井の高い洞窟。渦巻く臭気。不規則に響く蒸気音。その正体があった。
――堆い小山が微かに蠢動している。麓から三合目といったぐらいの所に、頭に被る笠位はある瑠璃色のビイドロの球がびっしりと九つから十、へばりついている。それはぼんやりと発光し、洞窟内を辛うじて目が利くように、”それ”が見えるまでに照らしていた。目なのかもしれない。違うかも知れない。誰にもわかる筈がなかった。
化け物の目鼻がどれとどれか、などと。
小山からは猿の毛にびっしり覆われた蜘蛛の脚らしきものが十数本突き出ていた。
その内一本は一番手前の関節から先が存在せず、断面からは海綿の様な穴だらけの腐った肉と針金の筋が数本顔を見せている。小山は呼吸しており、それに合わせて全身が大きく上下した。
山が縮む度に足の関節や背のあちこちから間欠泉の様に体液が噴き出す。高温故に半ば霧の様なそれが、悪臭と蒸気音の正体だった。
人の姿に気付き、化け物は唸り声を上げた。数千の人間を一つの箱に詰めて一片に断末魔を上げさせたら、けたたましさといい、人に喚起する不快感といい、同様の音が得られるだろう。聞いているだけで恐怖で精神が焼き切れそうな声だった。彼等がただ唖然と見守る前で怪物は益々猛り狂い、まばらに毛が生え、そうでない部分は体液でまだらに濡れた、ぶよぶよに膨れた水死体に藤壷がびっしり生えたような外皮が覗くみすぼらしい頭を振りかざした。ひずみ、擦り切れ裏返り、ごぼごぼと汚らしく粘度の高い水音が混じり、女の悲鳴の哀切さを帯び、けだものの怒りの狂暴さを搾り出して怪物は絶叫し、体を揺すった。
久秀に連れられた二人は何故まだ生きていられるのかにすら気付いていない。
化け物の背の中心には太く巨大な杭が天井から地の底まで深く打ち付けられていた。
その部位からもひっきりなしに体液が撒き散らされている。荒れ狂う、怒りに任せて振り回されている腕にも鎖と枷が嵌められ、四方の壁に押さえ付けられ、決められた範囲より外へは、決して届かないようにされている。この為だけに造られたのであろう規格外に太い鎖はそれでも表面が削れてきていた。鎖は振り回され、互いがガチン、ガチンとぶつかり合い、頭が割れるような金属音が間断なく響く。怪物の吠え声とそれとが共鳴し、洞窟全体がぶるぶると振動した。
その中で、久秀は人知れず笑っていた。化け物の怒りは余りにも人間的だった。人間の怒りが化け物地味ているのだろうか。憎しみに歪んだ顔に、種による差異は見られなかった。見た目を抜きにして見れば、感情の本質等一つだけなのかもしれない。神の怒りも虫けらの怒りも根は同質という訳だ。
数ある他人の感情の中でも取り分け、憎しみは楽しい。
――何故って、これ程無防備な感情もないからだよ。その隙に横から命を取られたって気が付かないのだろうな。その愚かしさが私にはかわいらしく思えて仕方ない。憎悪、怒り、殺意、あまりにも無邪気な感情じゃあないか!これを愛おしく思わずいられるものか。ましてその感情に足を掬われた時の惨々たる有様ときたら、失敬、あれほどの馬鹿な見物は、そうそう無いよ。皆だって本当はそう思いつつも面と向かって憎まれる時笑わぬ様に必死で堪えているんだろうな。大真面目に怒れる人を前に笑ったのでは、失礼に、ははは!値するからね。全く感心できない事に、私はその堪えが効かないんだ。ははは、誰かにコツでも聞く方が懸命かもな、こうも、どうしても、笑ってしまうのではな、はははは、は、は、は、は!
久秀の馬鹿笑いは何故か間者も聞こえた。男の悲鳴と、脳内を暴れ回る警告の信号音、怪物の怒声、鎖の鳴る音、蒸気音、地鳴りに聴覚はほぼ死んでいたにも関わらず、笑っている、とわかった。ふと、感情に襲われた。悲しみと呼ばれるものであったが、幼少時とうに殺された筈の感情の名などわからない。だが悲しかったのだ。自分。男。久秀。怪物。自分の歩んで来た人生。これからの道。つまりは末路。自分の末路、男の末路、久秀の末路、怪物の末路。末路という呼び方しか出来ないだろう、総ての未来に、一片の救いもなく、世界の総てがそれに完璧なまでに関心が無い事が。感情無しに生きて、何事にも関心を持たず任務をこなし、誰にも関心を払われず、死ぬとしたら、それは無と同義だ。生まれなかったも同じだ。しかしどうすることも出来ない。地の底にあって、狂人と他人と、化け物に共感を持ってしまう程の途方にくれる程の孤独が間者を襲った。未発達な感情が揺さぶられ、鳴咽が漏れた。原因も意味もわからないまま。
久秀は、笑いの発作を、自然と治まるに任せ、そのままいつまでも笑っていたが、ようやく体を起こすと、怪物をいかにも愉しそうに、目を細めて見た。
かわいそうに、彼は飢餓状態だ。その上満身創痍で全身から体液が噴き出し続けている。
本来余りに強大な力を持つ故に敢えてそうしているのだが、もう限界が近付いている。自然治癒に使用する熱量も残っておらず、ただ弱る他はない。
それでも低能であるがために暴れるのもやめようともしない。
非道な扱いに、怒りはいや増し続ける。
だがこれ位を見計らわないと、新たに栄養を与えるわけにもいかないのだった。
体力をつけさせ過ぎては、捕えておくことが不可能になる。それは久秀の望むところではなかった。
私だって、このときを楽しみにしていたのだよ。
君はわかってくれはしないだろうが、やはり手ずから栄養を与えるのは、飼い主の大きな醍醐味だからね。
久秀はぶら下がっている鎖の一本を両手で掴み、ほとんど体重を掛けるようにして強く引いた。
ガクン、と抵抗を覚えたところで手を離すと、カラカラと滑車が滑る様な音を立てながら鎖が上に巻き上げられていった。
同時に鉄格子が下りてくる。久秀と、それ以外の生命達を隔てて。
怪物の戒めが目に見えて緩んだ。
久秀は暫く捕食を眺めていたが、事務的に戒めを元に戻して独り地上へと戻った。
何事もなかったような素知らぬ外の気配が久秀は好きだった。
日は暮れかけ、赤く染まった空が徐々に黒へと塗り替えられつつあった。
天地の存在と人の意志は余りに絶対的に分離されており、その事に気付きさえすれば人を殺す事なぞ何でもない。
平蜘蛛もそうだ。天に愛されているようには見えない。だが人が存在を願っているわけでもない。
あれの存在が示すように、意志と現実は地続きではないのだ。
それを確認できるというだけでも、久秀はかの異形を愛していたが、信長もまた、正体に気付いている。強大な生物破壊兵器としての、あれの一面を欲しているのだろう。
信長に、見せてみたい気もする。もしかするとあの男はわかってくれるかもしれない。
だがやはり、差し上げるわけにはいかないな。
久秀は恋をする少女のような軽やかな足取りでその場を後にした。
何が起きたのか知る者はどこにもいなかった。
<了>
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BASARA信長様が茶器に価値を見出しそうになかったので。
ホラーのつもりですが、笑ってもらって構いません。書いてて楽しかったです。
BASARA3の久秀ステージ中ボスとかで出てきてくれたらいいのに。カプコンは気持ち悪いのが大得意なので、きっとイカすクリーチャーになると思います。