『晴れぬ霧の中』

父と話したい気分ではなかった。
だが呼ばれたのだから仕方ない。
父久政は、長政に家督を譲った身ではあったが、完全に隠居してしまったわけではなく、家中で未だに発言権を持っていた。
確かに彼の発言は、多くが的確であり、先を見る洞察力に溢れている。
ただ、どうしても保守的だった。
今ある材料から、予測の憑く未来の上で、危険性を最小限に抑える道しか選択出来ない。
即ち、大きな賭けに打って出ることが出来ない。
長政は父を尊重しようと努めていた。その知性を尊敬もしていた。
しかし一方、父の保守的な部分は、小心過ぎる、と内心疎んじていた。
戦国の世、完璧に安全な道など、言ってみれば零だ。
確かに父の言うようにしていれば、細々とでも、生き延びられるかもしれない。
だがそれでも、ある瞬間に不条理な死が突然降って湧く事だって有り得る。
そうなれば浅井の血筋は馬鹿だと哂われ、消えるのみ。
時には果断さも必要なのだ。
そこをわかっているかわかっていないかが、己と父の差の中で、己の方がより優れている点だと長政は思っていた。

「今参りました、父上」
「長政か」

久政が長政をじっと見つめる。
良くない目だ、と長政は思った。少なくとも、好意的ではない。

(父上もまた、私を軽蔑しかけているのだ)

その表情から長政は父の内心に触れ、不快感を覚えた。
話すことがあるならさっさと話して欲しい。

「昨日(さくじつ)の事だ、長政」
「はあ、あの事ですか。それで、何だというのですか」
「何故、あんな真似をしたんだお前は」

久政は長政の表情に何らかの変化を読み取ろうとした。
息子が、何か心の痛みを感じていると顔に表してくれればいいと思った。
だが長政は意志の強そうな目を真正面に据え、揺らがすことはしなかった。

「あんな真似、とは?」
「あんな事はするべきではなかった。どうせ奴等、大した内情を知っているわけではなかったのだから」

長政は全くの平静を装い続けていた。
だが内心では激しく動揺し、己の鼓動の跳ねるのを感じていた。
表にそれを出さぬよう、必死になっていた。
決して、動揺を露にするわけにはいけない。
非を、認めることになるからだ。

「私は、正義を為しただけです」

それは即ち、己の悪を認めることになる。
長政は自らの震えを押さえ込むようにして言い切った。






自領から、逃亡者が出ようとしている。
急に入った情報だった。
浅井を抜け、上杉に下ろうという事らしい。
―不義だ。浅井を裏切ろうというのだ。許しがたい悪だ。
長政は臓腑が怒りでかっと熱くなるのを感じた。

他に何を望むではない。
ただ、世の太平、秩序ある、正しき世を作り上げるため、それだけの為にこの身を窶しているのである。
何故、其の想いが伝わらないのか。
人間、正常ならば誰もが私の理想に共鳴するはずではないか。
誰が混沌、不条理、悪を望むのか。
望むなら、それは既に人間ではない。
削除すべき、この世の癌である。

許さぬ。決して許さぬ。
何物にも崩されぬ、堅固な平和を築き上げるには、一点の汚れも見逃してはならない。

「削除、だ」

長政は呟き、知らず、刀の柄を固く握った。
そして、逃亡兵の追撃に打って出たのだった。



逃亡兵達は息を荒げ、山道を延々と駆けていた。
今の所、追っ手は見えない。それでもやはり気は逸る。

「来い、こっちだ」

突然の声。浅井のものでは無さそうだった。
聞いた事のない、女の声である。
まだ若い娘の声音ではあったが、きっぱりとした鋭い語調が、心の強さを感じさせた。

「…っ!!き、貴様はっ!?」
「そう慌てるな。上杉の者だ。我々はそなた達を受け入れる。それで出迎えに来たのだ」

警戒の色を解かない浅井兵達の目の前に、魅惑的な曲線で作られた体躯の、女忍びが音も無く木々の間から降り立った。
顔を上げると、揺れる金の髪の間から、整った顔立ちが覗く。
彼女が差し出した書状には、確かに上杉謙信本人の手に依る流麗な文が綴られていた。

「私が長だが、この周囲に他にも複数名忍びが参じている。ここからは我らが護衛する」
「なんと、かたじけない事だ。我ら必ずや上杉の利になってみせまするぞ」
「謙信様は、自らの元に望んで下ろうという者に、極めて寛容なお方なのだ。
かつては私もそうだった」

女忍は目の前に彼の人が居るかのように、至上の敬愛をこめて主君を語った。
部下にこれほどに慕われる人柄ならば、と浅井の脱走兵たちは、自分達の決断を正しいものと胸をなでおろした。

まさに其の時である。

「そこに居たかぁっ!!」

鋭い怒声と共に、強烈な光が瞬間、閃く。
幾つかの、呻き声。恐れ、戦く悲鳴。
女忍―かすがはさっと顔色を失った。

「なっ―何時の間に!?」

振り向くと、銀の鎧に身を包み、瞋恚に目の色を変えた長政が凝然と立っていた。
後ろに数人の兵を連れてはいたが、それが何の恐怖を生もうか。
逃亡兵達は、ただ一人、長政の姿のみに目を釘付けにし、泣きそうな顔で歯の根を震わせた。
既に数名、地に伏して動かない。今の長政の剣撃で、早くも亡骸と化してしまった。

「女よ、どけ。其の者達を処断する」
「させはしない。彼らは最早我等の同士。ならば私が守る!」
「主を裏切るような兵共を守って血を流す事など、愚かな事と思わないか!!ここは引け、邪魔をするな!!」

長政の絶叫に、かすがは苛立ち露わに叫び返した。

「貴様こそこれを愚行と思わないか!? たった数名の逃亡兵、君主自ら処刑に追う等、尋常ではない!!
裏切られるは、貴様自身に問題があるのだ!!」

長政が一人の兵を睨みつけ、刀を上段から振り下ろす。
かすがが素早く動き、クナイでそれを受けた。
数合打ち合う。
かすがのしなやかな、猫を思わせる四肢の動きは、長政の直線的な剣撃では中々捉える事が出来ない。
かすがに庇われた兵が怯え、目を見開いて見つめる中、かすがの左手の内のクナイが弾かれ、闇の中に消えた。

「くっ」
「愚行……? 否、当然の事だ。
私に弓引く、それは即ち正義に弓引いたという事である!!
悪の芽、育つ前に早々に削除するは至極道理の事!!」

長政の声には些かの疑念も混じらない。
かすがは耳を疑うような顔をした。
そして呆れたように笑う。

「正義……? 正義だと!! 魔王の走狗が!!」

長政はぐっと喉を詰まらせ、顔を紅潮させた。
憤激したようにも、恥じたようにも見えた。

「私が、犬だと」
「主人の是非も問わず、ただ尻尾を振るのでは犬じゃないか!
奴と同盟を組むという事の意味をわかっていれば、正義などと口に出来無い筈だ!
奴が天下を取れば、奴の世が来れば、この国がどうなるのか、想像してみた事があるのか!?」
「うるさいっ!!忍風情に何がわかる!無駄口を叩くな!!!」

長政が吼え、斬りかかろうとする。
が、見えない何かに動きを阻まれた。
夜目を凝らすと、無数の糸が木々の間に張られている。
刀で払い切る間に、かすがが高く跳び、木の影に消えた。

「此度は最早、貴様に用は無い。さらばだ」

最後に声を残し、かすがの気配が消えた。
ふと見回すと、既に兵達は散じてしまっていた。
長政はかすがに気を取られていた事を悔やみ、歯軋りした。

「くそ」

小さく毒を吐いて、気を抜こうとしたかと思うと、目をかっと開いて背後を振り向いた。

「そこかぁっ!!」

半ばやけくそ気味に刀を投げると、草原から呻き声がして、逃げ遅れた忍がどたり、と倒れた。

「間抜けな奴も居たものだ」

まだ息のある様子であったので、捕えようと近づくと、毒を飲んで死んでしまった。
流石に捕われる程間抜けではなかったようだ。
長政はその忍び以外の、周囲に転がる逃亡者達の成れの果ての姿を睨むような視線で見回した。
一つを見極めて爪先で小突くと、掠れた苦痛の声が上がる。

「やはり、生きていたか」

長政が跪いて抱え起こすと、そうして動かされる事にも激痛が走るらしく、悲鳴に近い声が上がった。
だが一切気にするでもない調子で詰問がなされる。

「何故、我が元より上杉を選んだ」
「くっ、うぅ、あ」
「答えろっ」

痛みでそれどころではない様子の男を、長政は一辺の労わりも見せず、病的な執拗さでゆすぶった。

「言えば開放してやる。辛ければ殺してやろう。だが言うまで決して許さんぞ。
責めようというのではない。理由が、知りたいのだ」

無慈悲な振る舞いに反して、声音は殊勝さと誠実さに満ちていた。
姿も心根の芯までも、長政は正義を希求するひたむきな青年そのものだった。
そうでありながら、死に逝く人間に最後の苦痛を与えている。
その様子は魔王などというくっきりとした悪よりもよほど薄気味悪く、壮絶な異常性を匂わせた。
腕の中の男が、額に痛みによる脂汗をじっとりと滲ませながらも、笑顔らしく顔を歪ませた。

「そうして、下の者の意見をお聞きくだされば」
「なに」

平生、長政は己を強く信ずるが余り、周囲の声に全く耳を貸す事が無い。
忠言も異論も全て無駄口と遮断してしまっていた。

「だが私は正しい」
「……かも、しれませんな。長政様の理想は、素晴らしいものです。ですが―」

比較的落ち着いた声を出していた男の顔が歪み、引き攣った。
くちをぱくぱくと開閉しているが、声が出ない様子だった。
顔色はぞっとするほど白い。明らかに、血を大量に失いすぎていた。

「なんだ。ですが、の先まで言え!死ぬなっ」
「ですが、上の者がどんなに……正しくとも、下の声を黙殺しては……
それは……独裁、です」

独裁。
長政が兵士の最期の声を、どう受け取ったのか顔には全く現れなかった。
じっと、表情のない顔で兵士を見下ろしていた。
全身焼け付くような痛みと、刻一刻と迫る死への恐怖が心を腐食しつつある混乱の中で、男はじっと、長政の言葉を待っていた。
自分の訴えが、届いたのか、届かなかったのか。
激昂か、悔恨の言葉か。否定か肯定か。
そのどちらかが響くと信じ、意識を保った。
だが長政は

「そうか。それで終わりか」

と、どちらとも読めない声で言っただけだった。
―また、遮断されてしまったのか
失望に侵され、身体から一気に力が抜けるのを感じた。
いっそ、激昂でも良かったのだ。それとて心が動じたことに変わりは無い。

「……はい」
「どうする」
「殺してくだされ」

頚動脈が断ち切られ、勢い無く飛沫が待った。
ゆっくりと長政が立ち上がり、振り向く。

「貴様ら、なんてザマだっ」
「も、申し訳ありませぬ……」

突如飛んだ叱咤に、慌てた声で返事が返る。
浅井側の兵達は、糸で木に雁字搦めにされていた。
立つ瀬の無い様な顔をしているのを刀で糸を取り払い、救出する。

「おお、長政様、ありがとうござ―」
「あの忍と、今の男の言っていた事は忘れろ」

礼も待たず、強い語調で長政が言う。
有無を云わせぬ威圧的な眼光に、部下達は思わず言葉を失った。

「はっ。も、元より何を話していたのかは良く聞こえませなんだ故……」
「ふん、それなら良いのだ。ぼやぼやするな、帰るぞ」


帰り道、長政は終始黙りこくっていた。
如何な声を掛けることも、配下に許さなかった。
血の臭いが鼻を付く。
殺意が奥底に燻っている事に内心舌打ちをした。





久政はその様子を実際に見たわけではない。
見たのならもっと諌言は悲壮味を帯びたものになっていただろう。
だがそれでも父の声は困惑に満ちていた。

「長政。わかってはくれぬのか」
「父上の仰る事も尤もです。過ぎた懲罰は可能な限り避けたいと思います。
ただ、正義のためには予断を許さない場合がありますので」
「また、正義か」

ため息とともに吐かれた言葉に、長政は血相を変え、声を荒げた。

「父上、それはどういう意味ですか。正義を軽んじられるのですか」
「お前のその潔癖さは昔から変わらないな。それならば、何故織田と組もうなどと思うのだ」
「それは今は関係ありますまい」

ついに動揺が走るのが認められた。
上杉の女忍びに先日言われたばかりの同じ部分を突かれたからであろう。

「織田殿は魔王などと称されておるのだぞ。
為さり方には見方によって賛否両論あろうが、下敷きにされた犠牲の量だけは誰の目にも瞭然であろう」
「では父上は世論に賛成だというのですな。兄者は悪だと」
「織田殿は悪だ。私は言い切れる」

俯き、黙りこくる長政。
こうもきっぱりと言う父を見るのは初めてだった。正直意外な思いである。
長政を丸め込もうとするでも、説得するでもない、ただ、信じている事実を述べただけであるのが伝わってくる。

「馬鹿な。私が悪を見抜けず、それに属したなどと……」
「長政。お前は正義、と言う言葉を頻繁に用いている。
だが、私には、お前はその言葉を、何かを覆い隠すのに使ってしまっているように見えるぞ。
正義、で片付けてその先まで考えておらぬのだ。
一度正義という言葉を使うのを止めてみよ。他の言葉ではどう呼ぶか、よく考えてみてくれ」

諭しながら久政は息子の顔を覗き見た。
蒼白で、瞬きもせず表情を凍りつかせている。
目はその場の何を見るでもないのだが、ギラギラと光っている。
紡ぐ言葉の無い唇を強くかみ締めていた。
その形相に久政の目に臆した色が浮かぶ。

「まあ、良いのだ。考え込みすぎも良くない。今日はゆっくり休め」
「失礼します」

開放されたと知るなり、長政は殆ど形だけの会釈をして素早く踵を返した。

考えれば考えるほどわからなくなっていく。
正義とは何だ。
私は何だ。
父は私に怯えている。
兵達は私をどう思っているのだろうか。
私はこうも疎まれながら誰のために戦っているのだろうか。

「犬……? 犬だと……!? くそっっ!!!」

一人叫んで部屋の柱を殴った。
遣り場の見当たらない憤怒はただ、長政自身の身を焼いた。

―誰か教えて欲しい。
全てをはっきりとさせてほしい。
正義がどこにあるのか教えてくれ。
削除すべきは何か、教えてくれ。
私は正しい。そうじゃないのか。


間違っていないと、そう言ってくれ。




四方から否定される長政。
ですが私は決して「長政は間違ってるよね!馬鹿だよね!!」とか言いたいわけではなく、長政にも正しい側面もあるし、勿論間違っている部分もある。そしてそれは長政だけでなく、全ての登場人物に言えることだと思っております。
だから、誰の言い分が正しいのか、私にはわかりません。(何だこの書き手は)
まあ、完全に正しい意見が一つ存在するなら戦争なんて起きないってもんですよね。

でもそれはそれとして長政はヤバいです。
これから益々ヤバくなっていくので、彼のファンで今回気分が悪かった方は、次からは目にされないほうが良いかもしれません。
勿論、私は読んでもらいたいですが。(笑)
苦悩する長政が好きなんです。小物で、理想だけ高くて、ヒーローでいたいだけなのに偏執狂化してしまい、苦悩する長政が。
我ながら悪趣味ですが、私も好きだ!!って方いらっしゃいましたらご一報ください。
一人じゃなかったと知って喜びます。
読んで下さって有難うございました。お疲れ様です!!




<了>