規則正しい、具足を地に打ち鳴らす足音。
膨大な数の兵が一斉に移動しているのだが、音に乱れは一つもなく、一人の歩く足音がそのまま増幅され、響いているかのようだった。
織田軍の具足は黒い。全身に黒を纏った兵士達は表情一つ乱さず無機質に画一化され、ただ決められたとおり歩みを進める。
訓練されつくし、一糸乱れぬ進軍の様は、信長を脳として、兵士達が細胞の一つ一つを構成している一つの巨大な生き物のようだった。
現に信長は自らの指先と同じように、この軍全体を意思のまま操る事が出来る。
本隊にてその様を眺めながら、信長は目を細め、口の端を吊り上げた。

「美しいな」

濃姫は呟きを耳にし、良人の顔を見上げたが、独り言であり、返答を欲していたわけではないようであった。
いつもの様に、その後ろに憧憬に目を輝かせた蘭丸が付いている。
うきうきとしたその様子は物見遊山に赴いた子供の様な頑是無さであった。
だが、これより起こる戦に対する怯えが全く見られない事こそ、彼が普通の子供で無いことの現れである。
信長はただ悦に入った様子で隊列を眺めていたが、じきに満足そうに頷いた。

「今日こそ、武田を絶やしてやろう」
「はい」

答える声が、蘭丸のそれと重なった。
濃姫は視線を良人から陣へと移す。
広く横に敷かれたそれは信長の考案した陣であり、彼が対武田戦に於いて必殺と考えたものであった。
陣の前には一列に馬防柵が組まれ、柵の手前にずらりと銃を持った兵が並んでいる。
武田も既に陣を構えている。一刻後には酸鼻を極めると思われる草原は、今は嵐の前の静けさに覆われている。
却って不気味に思える静けさに、濃姫はふるり、と体に寒気を感じた。
城を出る前、供を許され小躍りする蘭丸に信長はこう言ったのだ。

「そう楽しめるものではないかもしれんぞ」

何故ならば、

「この度のものは戦ではない」

と。
冷たい刺すような緊張の中、此方へ向かい来る熱に気付き、濃姫ははっとして顔を上げた。

「上総介様」

信長の目がくわ、と見開いた。

「来たか」

ばっと片手を翳し、鋭い声で呼ばわる。

「鉄砲隊構え!長を狙え、雑兵は構うな!!それで騎馬は崩れよう!!」

千丁の銃が一糸の乱れなく一斉に構えられた。
目前に広がる長篠の原に地響きと共に砂塵が巻き起こり、赤い甲冑に身を固めた武田の騎馬軍団が姿を現した。
戦国最強と謳われ、全国の武士たちに恐れを抱かせている武田騎馬軍団。
進軍は速く、戦闘に於いては勇猛果敢、己の手足を操るが如き巧みな馬捌きは凡そ他軍の真似出来るものではない。
滑らかな黒灰色の健康的な輝きを放つ毛並みの馬達は、他軍の騎馬のそれより、その体つきからして一回りも大きく、圧倒的な威圧感を放っている。
力強く地を蹴る足は、蹴り飛ばされれば絶命を免れないと思わせる。
その馬上に、漏れなく手練の武士が跨り、手に手に槍を持ち、振るい来るのだ。
恐怖を感じるなという方が難しい。
流石に織田軍の兵達に乱れは見えない。
だが、苛烈な訓練を重ねてきた彼らですら、引き金に掛かる指の先に微かに震えが生じている。
姑息な馬防柵など、なんの役に立つのだろうか、と。
あの勢いを持って突撃されれば大山すら崩壊しそうである。
信長が強く呼号した。

「いいか、決して怯むな!!貴様等の恐れる武田騎馬隊の勇名、所詮今日までのものよ!!!」

叫びながら、蹄の音を地鳴りの様に響かせながら迫る馬軍を鷹のような目でじっと睨んでいる。
慎重に距離を測る。

―そうだ。早く来い。

射程の範囲内だ。
そう見極めると信長がさっと剣を振りかざした。

「撃てぇっ!!!」

一斉に千の銃口が鳴った。
足、胴、首、頭。
騎馬達に雨霰と鉛の玉が降り注いだ。
頑健な体も貫かれては無意味である。悲痛な嘶きが四方から上げられる。
血を流し、よろめいた後、なすすべも無くどう、とその体を横たえる。
後続部隊も、先発部隊のその悲惨な有様に少なからず動揺の色を走らせている。

「次だっ、撃てぇっ!!!!」

信長が剣を振り下ろす。
続いて鉄砲隊の第二隊が同じく千丁の銃を発砲する。
一度目で、当たってもいないのにただその轟音に怯えて突撃を止め暴れていた馬もいた。
馬は銃の発砲される爆発音に弱いのだ。
彼らやその騎手達も、第二撃で成す術も無く無数の弾痕を体に作り倒れた。
信長は、ただ声を発するのみ。
その度に死体の大山が築かれた。
むっと血の匂いが辺りに立ち込める。
織田の兵達は、斃れていく武田の兵達の今感じている恐怖とは、また別種の恐怖を感じていた。
こんな事が起きていいものなのか。
槍を一合も交える事も無く。互いの名も知らぬままに。
武士としての名誉も、誇りも感じあう事も無く。
英雄が存在しない。臆病な兵と、勇敢な兵の差異も生じない。
全て一緒くたに、ただ人が死ぬ、こんな戦があるだなんて。

―今我々の行っている所業は、外道のさらに外だ

冷たいものが心の臓を降りてくる。

「……こんなにも、簡単に……」

目を見張り、光景を眺めつつぽつり、と濃姫が呟いた。

「凄いや!!武田の奴ら、弱ぇなぁ!!!ね、信長様!!」

蘭丸は顔一杯に輝くような笑顔を浮かべてはしゃいでいる。
そうする間にも、眼前では阿鼻叫喚が繰り広げられている。
一方的な、鉛弾の蹂躙。
信長が突如弾かれた様にげらげらと笑い始めた。
双眸に獣じみた狂喜をギラつかせ、原の先、武田本陣に向かって、見えない相手を玩弄する様な調子で高く呼ばわる。

「どうした、出て来ぬか老いぼれ!!!貴様の自慢の騎馬軍団、最早良い的でしかないわ!!!
震えておる場合ではあるまい!!!」

銃声と悲鳴の充満する中、侮辱の声は敵陣まで届きはしない。
だが信長が笑っている。その事実だけはその場全域にはっきりと感じ取られた。






「ふぬぐわああああああああああああああああっっっ!!!!!」

遠く武田本陣。
憤怒に任せて激情を吐き出す若い武士。
その横で腕を組み、むっつりと惨状を睨んでいるのが、武田軍大将、武田信玄である。
若い武士はその弟子真田幸村。槍を折れるのではないかと危ぶまれるほど強く握り締め、腕を力任せにじたじたと振り回している。
米神には血管が幾筋も浮いているのが見えた。

「お館様!!!!最早、最早一刻の宥恕もなりませぬ!!!!ここは我ら、突撃して…っ」
「落ち着けぃ幸村ぁっ!!!!!!」

周囲一帯吹き飛ぶかと思わせるどら声に、幸村はぐっと怒声を飲み込み目を見張った。
信玄は静かな怒りを瞳に湛え、抑えた声を出した。

「内の憤懣、わしも同じよ。だが、ただ突っ込むだけでは我らも無傷では済まん。周りへの助けにもならぬ」
「では、ではどの様に……っ」

信玄がぐるりと後ろを振り向く。
頭に冠している赤い房飾りが弧を描いた。

「佐助ぇっ!!!!」

背後に、音も無く一人男が現れた。

「はいよ、大将」
「この状況に、埒を明けよ。方法は……任せる」

わかっておるな、と言いたげな視線に、佐助はにいっと笑って見せた。

「了解。じゃあ俺様は別行動してますわ。大将も、旦那も、御武運を」
「そなたもなぁっ!!!!」

幸村が大声で呼ばわった時には、既に佐助の姿は無かった。
残された師弟が視線を合わす。

「幸村っ」
「お館様!!!行きましょうぞ!!!!!」
「うむっ!!!!行かいでか!!!!」

力強く叫んで、二人は馬上にひらりと飛び上がった。
馬も心得たと言わんばかりに駆け出す。
幸村は一頭の馬の上に膝を折りしゃがむ様な姿勢で、いつでも敵に飛び掛らんばかりの姿勢。
信玄は何と二頭の馬に片足ずつ預け、馬上で堂々たる仁王立ちを披露している。
その威風堂々とした様子たるや正に人馬一体。
師弟の気迫は吹き上げる烈火となり長篠の草原をちりちりと焦がした。

「うおああああああああああああああああっ!!!!!」
「ふんぬおおおおおおおおおおおおあああああっっっ」

野生の虎すら逃げ出さんばかりの野獣の咆哮。

「来たぁっ!!信玄と幸村だぁっ!!」
「ひるむな!!!撃てっ!!撃てぇい!!!!」

無理からん動揺の走る中、果敢に撃ち出された幾多の鉛の弾。
流石の最強師弟も、斃れて行った騎馬達と同じ運命を辿る他無いかと思われたが。

「ふぅんっ!!!」

信玄が腰だめの姿勢をとり、左下から右上へと大きく斧を振り薙いだ。
ぶぅん、と空気を裂く音が低く響く。
高く、小気味のいい音と共に鉄砲の弾は全て弾き返された。
今度は悲鳴をあげるのは織田軍鉄砲隊の方であった。
そこへ折りしも、すぅっと視界が薄く曇り始める。

「……霧……?」
「馬鹿なっ。今日この日霧の出る筈が……」

霧が出たのでは狙って狙撃する事が不可能になってしまう。

「ぬぅ……」

信長の白い額に薄っすらと血管が浮き出た。
今日初めて明らかに苛ついた表情を見せる。
眼前から迫り来る信玄は、それとは対照的に豪快な笑い声を飛ばす。

「わっははははは!どうしたうつけ!!!貴様こそ、馬防柵と鉄砲隊に隠れて震えるのみか!!
情けない!!!出てきて潔く馬に蹴られぃ!!!」

とはいえ未だ戦況は完全に引っくり返ってはいない。
最早大勢は決したとすら言える程、武田の被害は甚大である。
それでも、この場の兵達誰もが思った。
まだ、わからないのではないか、と。

「丸っ!!霧の元を探せ!!
……恐らく、忍がおる。断って来ぃ!」
「御意!!」

蘭丸が幼い声ながらも凛とした返事を返し、駆けて行った。
直後信長は背後に控えていた己の妻に視線を走らせた。
濃姫が軽く頷いたのを見て、向き直る。

「余が出る!!!」

腰に下げていた散弾銃と長剣を両手に構え、柵の前に躍り出る。

「はっはっは、出て来おったかうつけ!」

信玄が斧をまた豪快に振り回す。
足元の地が抉れ、大岩となり、地上へ飛び出した。
それを鞠の様に斧で強く前へ打ち出す。
狙いは違わず信長。
本来ならぺしゃんこ、頭蓋も全身の骨もぐしゃぐしゃに砕け、無残、圧死するところである。
思わず濃姫が悲痛な声で叫ぶ。

「上総助様っ!!」
「小賢しいっ!!」

信長が唸るような声を出し、長剣で空を切るような仕草をする。
途端、信長の全身から禍々しい紅が、次いで底の見えない漆黒が噴き出る。
黒と赤、二色から成る瘴気はさざめく様にじわじわと、信長周辺の空気を冒す。
それに触れるやいなや、頭上に飛来していた大岩は、より堅い何かにぶつかったかのように砕け散り、ボロボロとその場に崩れ落ちた。

「貴様は犬を殺せ」

背後でぼうっとその様を見つめていた濃姫に、振り向きもせず、低い声が命じる。

「はい」

濃姫はきっと幸村を睨み、銃を構えて走り去った。
信長は瘴気を遊ばせたまま、酷く緩慢な所作で信玄を見上げた。

「来たか、老い耄れが」

信玄はふと、馬の異変に気付いた。
足を止め、か細く震え、苦しそうに嘶いている。
(む、いかん)
信玄が飛び降りると、馬はニ、三歩よろめいて、地に斃れ伏さんとした。
だが、それより早く、その二頭の首が弾け、四方に散じた。
信玄が微かに目を見張る中で、頭の無くなった首二つから、だくだくと大量の血が零れている。

「貴様の首に、しておけば良かったか」

哂う様な声に振り向く。
信長が眠そうな目をして虚ろな笑いを浮かべている。

「馬を無下に扱えば勝ちは取れぬぞ」

戦は人も馬も死ぬもの。
だが今のような無為の死には憤りを感じた。
馬は最早、倒れる最中であった。
更に首を飛ばしたりする必要は無かったはずなのだ。

「はっ!そういう貴様は幾つ無駄にした。そら、そこに転がっておろうが」

周囲は紅い病に満ちており、死に切れず体力を減じて苦しむ呻き声や、死して尚蝕まれた悲愴な死顔に満ちていた。

「全てが、古きに頼む愚かしさ故よ。一度こうして、全てを滅する。
余は愚かな"今"を塵も残さん。虎、貴様も悪しき"今"と共に朽ちよ」
「うつけよ。貴様の説く利は確かに脅威よ。
だが、わしがこのザマを晒しても尚、貴様に天下を明け渡せぬ理由は、他ならぬ貴様だ。
どんなに強さを持ち、どんなに疾く駆け、何人も成せぬほど完璧に世を平らげたとしても、貴様の創る世は、貴様だけのものよ!!
そんな天下に、意味など無い!!!」

信長の白目の縁が赤味を帯びた。
信玄の目も、静かに、穏やかに、殺意が満ちている。
互いの目に、互いの死が映っている。
どちらが先に動いたかは知れない。
だが、壮絶な戦いが、そこより始まったのだ。
信玄が斧を一振りすると、地面に亀裂が走り、巨大な山が出現した。
それを信長が背に翻る真紅で打ち砕き、辺りで大岩の雪崩が起きた。
最早他の兵達の手出しの出来る世界ではない。
どちらかの大将が生き残るまで、信じられないものを見るような目で呆然と見続けるほか無い。
その間にも、彼方此方で馬防柵が倒れ、残った兵が弾き飛ばされる。
信玄の持つ大斧が、幾度も信長の寸前の空を切る。
一撃辺りさえすれば甲冑は砕け、身体は両断されるだろう。
強烈な力である。信長の瘴気に蝕まれているとは到底思えない。
信長の身体から放たれている気は病となり、生あるものたちの体力を奪い、死に至らしめる。
先の、信玄の馬のように。
信玄は身体の芯から蝕まれる感覚をその胆力で以って凌いでいた。
作り上げられた分厚い肉体は、負の気がいくら削り取ろうと纏わり付いても、簡単に崩れたりはしない。
信長は自在に形を変える真紅を用い、背より眼前に向けて引き、無数の棘を放つ。

「ぬあっ」

信玄の身体に棘により穿たれた幾つもの穴から血が噴出す。
途端に今までの疲労が体を襲い、信玄は呻き声を上げて片膝を付いた。

「貴様の死骸は手に余りそうだ……。貴様は虎故、皮でも剥いで持ち帰ろうか」

信長が酷薄な笑みを浮かべた。

「なんの、まだまだよ」

信玄は負けじと、にやっと笑い、固く斧を握り直した。













「お館様ァっ!!!!」

幸村が呻き声に反応して心配を露にし、叫び声を上げる。

「余所見……してて、いいのかしら? 坊や……」

声に振り返り、痛々しげに眉を顰める。
濃姫は幸村の槍に翻弄され、既に疲弊の色が濃い。
着物も端々が焼け焦げ、生々しい傷の上を火傷の跡が覆っている。
本来なら彼女の華麗な銃裁きは幸村をもっと苦戦させていてもいい筈だった。
だが、先刻から辺りを覆う霧がそれを不可能としていた。
標準を合わせる事が困難な中、俊敏な身のこなしで攻め来るこの男相手には、念入りに隙を狙って、どうあっても避け切れない一撃を放つしかない。
生半可な標準では、この男は弾き飛ばすか、避けるかしてしまう。

「女子を傷つけるのは本意ではない。もう戦えぬ以上退くがいい」

決然と言い放つ。
真っ直ぐな幸村の目線。濃姫はそこから逃げる様に鼻で笑って見せた。

「馬鹿言わないで。あんたが死ぬか、私が死ぬかでしか終われないのよ」
「何故だ!!女子の身で何故そうも戦う!!」
「あんたと同じよ!!あんたは何故戦うの!?私だって同じなの!!私にだって……守りたいものがあるのよ」

幸村は弱りきって立ち竦んだ。
女といえど、敵なら手にかけなければならない事くらい分かっていた。
だが彼女は、自らの意思に反して戦っているように見えた。
退けと言って退くなら追う理由も無いと思い、そう言った。
その後に大将首を取れば、今後敵として再びまみえる事も無い。
申し出を断られた以上今更どうしようもないのだが、やはり心に引っかかった。



「うつけ」

再び何事も無かったかのように斧を振り回していた信玄が、ふとそう信長に声を掛けた。
返事は無かったが、目が声を捉えた事を物語っていたので、そのまま続ける。

「一寸時間をやる。女に退けと声を掛けよ。お主の言う事なら聞くはずよ」
「ふん」

信長は信玄を馬鹿にしたような目で一瞥し、さっと口を開いた。

「命に代えても止めよっ!!」
「必ずや!!」

濃姫の悲痛な声が答える。
信玄が体を捻り、斧を携えたまま大きく回転をした。
風が吹き起こり、信長は回避して後ろに飛びずさった。

「うつけは貴様よ。今退かせて何ぞ意味があるか?」

「薄情は人心を離させ、兵を散ずる。驕り、魔王などと自らを呼ばわる大うつけめ、そんな事もわからぬか」

嫌悪の怒りに煮えたぎるような信玄の怒声を信長は笑い飛ばす。

「では貴様犬の死を恐れるか。戦場に連れおいて、死すれば泣き、喪に服しでもするか。
それは良い!その間に余が上洛を成してくれる」

言葉はどこまでも混じりえず、水と油のようにつるつると弾き合い、お互いの心まで届きはしない。
思想の根を生やす土壌自体が違う。

「女一人愛せんとは、詰まらん男よなぁ」
「ふん、愛で天下が取れるならやってみろ」





「う……く、ぁ」

濃姫がか細い声で呻く。
露な足に大きな傷を負い、歩く事が適わない。
幸村が我が身の痛みのように苦しそうに見下ろしている。

「……許せ。だがこの幸村、どうしても魔王が許せぬ。お館様に助太刀し、あ奴を討つ」
「駄目、行かせない!!」
「佐助」

幸村の小声の呟きに、濃姫も思わず動きを止めた。
視界が、少しずつ晴れていく。

―長篠の霧が晴れた。

「こっちを向きなさい」
「っ!」

振り向いた途端、弾丸が幸村の身に飛来した。
かわし切れず横腹に掠めた。熱く皮膚の表面が焦げ、切り裂かれた事が伝わる。

「不意打ちは、嫌だったのよ」

濃姫が笑う。
傷ついた体であり、その場から動けない。
綺麗に纏め上げられていた黒髪も解れて顔に垂れてはいたが、誇らしげな笑みが顔中を輝かせていた。

「形勢逆転ね、坊や」

きっと目を細め、銃口を引きしぼる。
幸村も目を据わらせ槍を油断無く構えた。

「背など、向けさせはしない。動けば蜂の巣にしてみせるわ」

憤りが増し、二槍を覆う焔が幸村の心情そのもののように吹き上がる。
その揺らめきを残して、二人は張り詰めた空気を間に静止した。






「ふん!」

信玄が渾身の力を腕に込め戦斧を振る。
信長が長剣を繰り出し、刃物のぶつかり合い、合わさる部分の砕け飛ぶ甲高い音が鳴る。
巨大な斧を通しての甚大なる怪力、真っ向から剣で受けるはあまり上策とはいえない。
咄嗟の事でなければ信長も選びたい道ではなかった筈だ。
だが信玄と比べれば随分見劣りのする体付きを見る限りはすっ飛びでもしそうな所を、信長は半ば意地で踏み留まった。
刃同士を打ち合わせたまま、左手に持つ散弾銃を信玄の眼前に翳す。

「さらばだ、信玄!!」

信長が吼え、引き金を引く指に力を込める―


―刹那。


その場に居た全員が、針の刺すような細く、鋭い冷気を感じた。
何が起こったかと、皆が目を見張った。
瞬きをしたわけでもないのに、誰もその瞬間を見たものは居ない。
ただ、信玄の頭を破裂させる筈であった散弾銃が信長の手を離れ回転しながら宙を飛ぶ。
そして信長の左手の爪先から手指、腕左肩、胸の辺りまでが、薄いかけらの集まった氷に覆われている。
と思った次の瞬間には氷付けの箇所から鮮血が噴出した。
どこまでも純度の高そうな美しい透明さを持つ氷の表面を血の赤が滑り落ちる。

「ぐぅっ」

信長が苦悶に呻くと、長剣を弾かれるのは同時だった。
よろけ、片の膝を地に付ける信長。
だが信玄は止めを刺そうとはしなかった。
ぐい、と顔をあげて周囲を見回す。

遠く切立った崖の上に白い人影が佇んでいる。
すらりと立つ美しい姿勢がここからでもよく見て取れた。

「ここは、ひきなさいとらよ。しんがりをこのわたし、けんしんがつとめましょう」

天上から響くのではないかと思わせる涼やかな声が凛と告げる。
目を細め、その姿を見つめる信玄の目に驚きの色は無く、穏やかだ。
彼の人のした事だと、元よりわかっていた。
目にも留まらぬ抜刀により違わず一点を狙う、華麗にして冷たい一刀。
この様な真似が出来るものはこの広い戦国でも上杉謙信しか居ない。
気が付けば丘の上には上杉の軍の兵達が武田の兵達を守るように待機している。

「そんな事の為にかのような地にまで馳せたのか、謙信」
「いつぞやのかり、これにてかえしますよ」

笑みを含むような声で言うと、ひらりと謙信の影は崖より舞い降りた。
同時に信長、信玄も動く。

「幸村っ!!退くぞ!!!」
「はい!お館様!!!!」

幸村が応じ、その場を動いた。

「まっ、待ちなさい!!」

濃姫が引き金を引く。
槍を駆使して弾丸を避ける幸村。
避けきれずいくつか掠めたが、痛みなぞに動じる様子は全く無い。

「動くな女ァッ!!!」

濃姫が目を見開き、びくり、と動きを止める。
声のするほうを見ると信長が駆け寄る姿があった。
濃姫のもとまで来ると強引にその腕を引き、己の真紅でその姿を覆い包むようにしながらしゃがみ込む。
何事かと濃姫が目を白黒させているそのうちに、上で信長が号令を発する。

「余には当たらぬ!! 撃て!!全軍だ!!彼奴らを撃てェっ!!!」

織田の兵達は大慌てで声を上げ、銃を次々に撃ち出す。
目の前に大将が居るのだが、躊躇などはこの軍には許されていない。
退却する武田軍の背後を無数の銃弾が襲った。

「はぁっ」

謙信の気合の一声が聞こえる。
刀が鞘から抜け、煌めく。

その切っ先から真っ直ぐに長篠の原を横断し、長い氷の壁が現れた。
銃弾はその壁の表面を欠くのみに留まり、武田の軍に届かない。

「ちっ」

信長が口惜しそうに舌打ちを鳴らす。
最早止められない。この戦、痛み分けである。

「うつけよ、此度わしの負けよ。この首未だ繋がっているはお主さぞや理不尽であろう。
だがこうして生き延びたからには必ずやこの負けを雪いでみせる!!次はおぬしの負けよ!!!」
「ほざけ老いぼれ虎がァ……。精々この無為な延命喜ぶが良いわ……!!
次にはあの時死んでおけば、と涙する破目を味あわせてやるぞぉっ!!」

信玄の啖呵に信長が唸るような声で吼え返す。
熱と混乱は暫くその場を支配したが、退却する馬の足音が遠ざかるにつれ、それらも引いて行った。
戦は終わり、死体がただ斃れる原の惨状だけが残った。
信長は武田の去った後を暫く射る様な目で睨んでいたが、ふぅっと吹っ切れたように顔つきを変えすっくと立ち上がった。

「陣に戻るぞ」
「あの」

下からか細い声で濃姫が声を掛ける。

「何だ」
「使命果たせず申し訳ありません」

言って身の置き場がないといった風に俯く。

「馬鹿か、俺を見ろ。人のことを言えた風体か」

信長は不機嫌そうなため息交じりの声で言った。
言われて見ると氷は大分解けてはいるが未だ微かにこびり付いている。
銀の甲冑は半身血に染まり、彼方此方が斧の斬撃により欠け、いびつに歪みが生じている。
信長の立ち居振る舞いはしゃんとしていて、痛手を感じさせはしなかったが、濃姫はそれを見て顔を青ざめさせた。
良人の身が傷つくのを、みすみすと許した。
あまつさえ、逆に守られてしまった、我が身の不甲斐なさが許せなかった。

「……私など、お庇い立てされずとも良かったのです」
「貴様をあのままにすれば、兵が撃つのを迷う」
「あ、それで……」

得心したように呟く濃姫の体が強引に抱え上げられた。
驚いて声も出せず、足の痛みを感じる事も出来ない。

「そ、そのような!お止めください」
「じっとしろ、俺だって痛い」
「嫌ぁ!!降ろして下さい!!」
「よせ、照れて愛嬌のある歳か考えろ!」

傷に障ると思うと、とても堪えかねて悲鳴に近い声を上げてしまう。
それを一喝されて濃姫は身も世もない呈で俯き、顔を赤らめた。

「今日は虎の首を持ち帰れると思ったんだがな」

呟く声も耳に入らない。
駆け寄ってきた蘭丸の姿を見つけ、つい逃げるように声を掛けた。

「蘭丸君」
「ごめんなさい信長様!!忍を仕留められませんでした!!」

蘭丸がぴしっと姿勢を正し、叱りの言葉を待つ姿勢を作った。

「上杉の手か」
「は、はい……」
「霧は断ったのだから良い」
「はい!次こそ蘭丸、不覚は取りません!」
「次、か」

信長は一人ごちて戦場を顧みる。
人が、馬が、今や指先一つ動かす事も出来ず、ただ肉塊となり転がっている。
全身に弾傷が散らばり、早くも固まりだしているどす黒い血が流れ出て出来た筋が幾つも走っている。
血と腐り始めた骸の腐臭の入り混じった、どこか甘さを含む異臭を運ぶ風が吹く中、信長はすうっと薄く冷酷な笑みを浮かべた。

「さっさと息の根止めてやらぬと奴も哀れだからな」






「お館様あっ!!お館様ああああああああああああああああ!!!!」
「幸村!!」
「お館様あああああああああっっっっ!!!!!」
「落ち着け!!幸村ぁ!!!」
「この、真田幸村、己の至らぬ戦、口惜しさ、断腸の思いでござるうううっ!!!!!」

長篠、その数里先、退却の歩を進める武田軍。
逃ぐる道すがら、満身創痍をものともせず吼え猛る幸村の姿があった。
顔を真っ赤にして地団太を踏む様は、今にも逆上せ過ぎで卒倒しそうである。

「あの様な外道の輩……!!一刻たりとものさばらせる訳にはいかぬというのに、この幸村醜態をさらすばかりっ……!!
お館様への一欠片のご助力にもなれず……っっ」
「幸村ぁっ!!!」

信玄が暴れる弟子を見据え、大きく拳を振り上げた。
空を切り唸るその豪腕は、目を見張り、体が逃げを打つ様子もない幸村の顔面に直撃するかと思いきや
その直前、一寸手前にてビタリと静止した。

「この口惜しさは、胃の腑に収めておくべき口惜しさよ」
「お、お館様……」

信玄がゆっくりと体を、沈み行く夕日に向けた。

「臥薪嘗胆。今はこの負けを糧とし、更に強くなることこそ肝要だ」
「お館様ぁ!!!承知……承知でござるぅうっっ!!!!貴様もだぞ、佐助!!!」

感動に顔面全体の筋肉を戦慄かせながら幸村が後ろを振り仰ぐ。

「わかってますって」

後ろに同じくあちこちに矢傷や切り傷でボロボロの佐助が現れた。
口調はいつもの道化めいた軽いものだったが、顔に浮かぶ笑みには苦笑が隠し切れずに混ざっていた。

「かっこ悪いよなぁ。任務失敗した忍が生きて逃げ帰ってくるなんてさぁ」
「何を言うか。お前のお陰で何人命を拾ったと思っている」

慰めではなくむしろ叱るような口調で信玄が言う。
それを聞いても佐助は笑みを浮かべたままただ肩をすくめた。

「よくぞ生きて帰った、佐助!!」
幸村が佐助の態度にも構わず含む所なく、闊達に言い放つ。
この師弟の物言いは、佐助の決まり悪さに無意識に追い討ちをかけているようなところがあった。

「だから、それがかっこ悪いんだって……。あーあ。だけど仕方ないか。俺様、武田の忍びだもんなぁ。
なんでもかっこよく、って訳にはいかないよなぁ」

疲労の色濃い声音で、ぼんやりとした憎まれ口を叩いて、佐助は照れくさそうに笑った。
男三人は、顔を見合わせて傷だらけの顔で笑いあった。



天下を治め太平を築くため厚き情を胸にその猛き力を振るう信玄。
天下布武を掲げ、冷酷に破壊を以って事を成さんとする信長。

強き武士の跋扈する戦国乱世。
敵無しとも思えるような者でも、最後に残るのが只一人である限り、その他多数は敗れ、斃れ行くことが必至である。
彼らも、どちらかは志半ばに死に行く事となる。
両人共に、ということも有り得る。
だが彼らはそれを恐れない。
その瞬間まで、果てに行き着くことを信じて、戦い、進むのである。




<了>