「伊豆殿」
真田信之を呼び止めたのは、伊達政宗そのひとであった。とんかん、と江戸城は三代将軍の命による改築工事の最中で、かしましい。政宗のよく通る声でなければ聞き逃していたかもしれなかった。信之は六十三歳になっていた。
「陸奥殿にはお久しゅう」
ということは、と信之は思った。伊達政宗は六十二になるはずだ。弟と同じ年だから、すぐにわかる。
「こちらこそ。陸奥殿にはご機嫌うるわしゅう」
「躑躅(つつじ)の匂いが致しまするな、香をたいていらっしゃる? 」
「いいえ?」
ちょうど季節柄であるし、江戸の町は日毎拡大していたが、城を出て少し歩けばまだまだ野生の山躑躅に出会うことができる。そのために江戸じゅうがなんとなく躑躅の香りがして、すぐ脇に見える贅をこらした江戸城の庭よりも、信之には心地よかった。真田家のかつての主、武田家の館は躑躅が崎という地にあった。
信之は説明して、
「わたしから躑躅の気配がするとすれば、嬉しいことです」
紀伊の庵にも、躑躅が咲いているところがあるそうです。と付け加えて笑んだ。それは弟が九度山に配流されていた際の庵のことを指している。
信繁との生きていたことを禁忌にさせはしない。これから真田家が存続している意義は、ただ信繁への手向けだと、信之は誓って生きている。
ふと、政宗は息を吐いた。
「この年になると、もしも、を考えることがござる」
「わたしより若くとも、ですか」
「これは失礼」
「いえ独眼竜の異名をとられる陸奥殿なればこそ。わが真田家は、取り潰されぬよう必死でした」
「頭のなかで日の本の地図をひろげ、あのときだれがこう動けばああなったのに、と、考えることがござる」
ほけきょう、と庭から鳴き声が聞こえた。鶯は春の訪れを告げるが、夏になっても鳴き続けることを惜しまれている鳥である。
「わしが天下人であれば、太閤や神君のように、わしが、伊豆殿と弟御を引き離すことがあったやも、と、考えると」
政宗はようにくちびるの端を上げて、独眼を閉じた。
「耐えられぬ」
いつの間にわしはこのように弱うなったのか、と自嘲する政宗に、信之はかぶりを振った。
「それほどに想われる弟を、誇らしく思います」
鶯はいつまで経っても羽を休めたままだ。
老いた大名二人は、ただそれを見つめている。