『慟哭』


部屋を覗くと、寝転んだ背が見えた。

「あ、いた」
「おお、いるぞ。何だ」

声を掛けられた男が、ごろん、と寝たまま転がって此方を見上げる。
部屋の前に立つ市と目が合うと、信長は口の端だけで笑った。

「お前から来るなんて珍しいな」
「うん、あのね、武技のお稽古に付き合って欲しいんだけど」
「あん? 別に俺じゃ無くったって良いだろう。誰ぞ呼べばいい」
「でも、市、兄さまにお願いしようと思って来たのに」

市が後ろ手に持っていた薙刀を前に回し、それを支えに持ってしゃがみ込む。
顔を覗くが、信長は起き上がる様子も見せず、ごろ、とまた横を向いた。

「でも俺だって、昔みたいにぴょんぴょん遊んでいていい立場でもなくなったんだぞ。わかってるだろ、それは」
「忙しいの?」
「見ればわからないか」
「ごろごろしてるように見えるけど」
「そう見えるか。まあ、そうだな、今はごろごろしてたんだ、俺は。正直暇っちゃ暇なんだ」

信長はうだうだとだるそうに寝転がったまま体を起さない。
だが市が何時までもじっとその様子を見下ろし続けていると、ようやく上半身を起こした。
勢いよく身体を跳ね上げ、その勢いのまま怒鳴る。

「お前、弱すぎるんだよ!!」
「でも、強くなったと思うけど……」
「本当か。俺が、やりあって面白いって思うくらいには、か?」
「……うん」
「よし、いいだろう。やってやる」

信長は先までの様子からは想像できないくらい俊敏な動きで木刀を引っつかむと部屋を飛び出た。
数日前、城主となるまではこうやってどこへでも飛び出して、この自室にも殆ど姿があったことは無かったのだ。

「ほら、掛かって来い!」
「やぁっ」
「どうでもいいが、お前のその気の抜ける掛け声、どうにかならんか」

掛け声はともかく市は真剣なようで、信長の軽口には答えない。
信長は片手で持った木刀で、刃を受け、かわした。
太刀筋が悪い、と思ったことは無い。
ただ、力が不足しているし、この程度出来る女なら大勢居るというだけの話だ。
最初は面白がって相手をした。
だが、仮に弟であったのなら、もう少し使い物になるまで付き合ったかもしれないが、妹である。
これ以上のものになって欲しいという思いは特に沸かなかった。
今や市の武技は、今信長にとって、どうでもいい事の一つだった。
暫く受け流し続けると、市は攻めあぐねて肩で息をし始めた。
信長は構えを解き、木刀を持つ腕をだらりと下ろした。終了を告げる動作である。
市はちら、と窺う様に信長を見た。

「……どうだったと思う?」
「あのな。よくこれで俺に、強くなったから相手しろ、なんて言えたもんだな」
「でも、ちょっとよくなってたでしょ?」
「こんなちょっとで、俺相手にそうやってしゃあしゃあとハッタリかませる所は買うよ。そんな奴は、居ない」
「でも、弱い?」
「弱いっ!!」

大きく息を吐いて、へたり込んでしまった市の前で、信長は木刀を手慰みに振りながらうろついた。
そのまま、何も言わない。息も乱れていない。
ただ、市の荒い呼吸だけが響いていた。

「お前の趣味ってんならいいけどな、これ以上やったってどうにもしょうがないぞ」
「兄さま、市もいくさに出たい」
「駄目だ、連れていかんっ」
「……弱いから?」
「違う。お前が、女で、見た目が良いからだ」

市は信長を見上げた。
特に大切な話をしてる風でもなかった。
視線に気付いた様子だったが、目が合っても笑いもしない。
ただ、市の横を通り、背後にある庭に突き出た縁側に腰を下ろした。
から、と木刀が床と当たる音がする。

「もっと言えば、お前は戦に出すより、俺にとって都合の良い戦わせ方があるって事だな」
「……どっかに、お嫁に、出すって事」
「そうだ」

市は膝を抱えて俯いた。
兄の非情さは時折りこうやって不意に顔を出す。
肉親だろうと何だろうと、何も関係なく突き放したような口振りで話す。
計算器が口を利いているようだ。物として見られているように感じる。
市は途端にやり場の無い悲しみに襲われた。

「おい、どうした、めそめそするな」
「市が、強かったら、ずっと織田に居ても良かったの?」

市が震える声で聞くと、わけがわからないといった風に頭をぼりぼりと掻いた。

「あのなぁ、違うだろ? 使い方の違いってだけで、要らんからどこぞへやり、要るから、戦に出すではない。
……ならば聞くが、どちらがより、己を殺して生きる道だ? 己を通す生き方だ?
どちらも、同じだ」

言葉を連ねるうち、抑揚が少しずつ、失われていく。
語りかけるよりも、誰に聞かせるわけでもない、独り言のような話し方になっていく。
周囲の空気すら、冷えていく気がした。
市からは、どんな顔で信長が話しているか見えない。
ただ、どこまでも無感情な中に、微かな揺れがあったような、錯覚があった。

「この時代、織田に、生まれたんだ、市。
俺もお前も人としては生きられん」
「……兄さま?」

酷く彼らしくなく、感傷的に聞こえた。
恐る恐る振り返って視線を向けると、いつもの様に、何も感情は見えない。
ただ、目鼻が、あるがままに付いているだけで、そこに心の内による変化は全く訪れていない。
視線は市より少し手前の地面に、ただ注がれている。それも、ただ目があり、物を見ることが出来るからそうしている、というだけに見えた。

「悲しいか、市」
「……市は、いつも兄さまの言ってる事がよくわからないの……。
兄さまは?
……兄さまは、悲しい?」
「俺か? 俺は、悲しいなどと思ったことは無い」

信長は、きっと顔を上げた。

「動かし難き諸々の現実、全て是非もなし」

視線が、声が、たちまち熱を帯びる。
夢でも見ているかのような表情が信長の顔に浮かぶのを、市は同じく取り付かれでもしたように呆然と見つめた。

「どうせ全てを俺が壊す。全てが俺のものになる。
だったら、何がどうあろうと、悲しみはない」

そこまで言うとぼうっとしたまま停止してしまった。
市が、大丈夫だろうかと気を揉んでいると、すぐに全くの常人の目を取り戻し、だら、っと体重を後ろに付いた片手に預けた。

「どうせ、わかんねぇだろ」
「うん」
「ははは、馬鹿。
しかし、お前、ずっと織田に居てどうする」

(あなたを止めたい)

心に描くだけで、読み取られそうで身体が震えた。
市は、一度もそれを口にした事はない。
勿論、誰に言った事も。
それっきり、全くの不可能になりそうな恐れがあったのだ。
本人を目の前にするとその恐怖は高まった。

「一人で……どこかに行くのは寂しいから」
「そんな事か。どうせすぐ慣れる、そういうもんだ」

事も無い調子で言いながら、信長は妹の白い顔をじっと注視した。

「女でよかったのかもしれないぞ」
「どうして?」
「俺と離れられるから」

後にこの国のあらゆる災厄の元凶となる男は、笑いながらそう言った。

「俺が恐ろしいのだろう、お前は」

責める響きでも、脅す響きでもない。
ただ、わかりきっていることを言っているだけだった。
市はびくりと身体を震わせ、俯いたまま声も出せなかった。
何とか否定の意を示せればと首を横に振る。
見抜かれていた。
一体、いつから? 
気付かれているとも知らず、必死で隠そうと、何時ものように振舞おうと足掻いていたという事か。
そしてそれすらも知られていた?
それなら、信長はどういうつもりで、市と相対していたのだろう。
考えれば考えるほど頭が混乱し、市は出来ることなら存在ごと消えてしまいたいと願い始めた。
ただ、必死で頭を振り続けた。

「そんな、そんな、こと……」
「おい、落ち着けよ。別にどっちだっていいんだ」
「でも、本当に、そんなことないの」
「ふん、そうか。なら俺の考え違いだな」

無関心な調子で信長が引き下がったが、市は全く安心できなかった。
本当にそう思っている等と信じられる要素はどこにも無い。
兄の心の中は真っ暗な空洞の様だ。何が潜んでいるか本人以外に窺い知る事は出来ない。
得体の知れない存在がそこで息を潜め、じっとこちらの動きや心を全て見ている。
闇だ。
目を持った闇が人の形を成している。

(誰か)

助けを求める相手はいない。
織田の領内にあっても、ただ独りきりになってしまった気分だった。

(誰かあれを、兄さまの中から追い出して)

いつの間にか市は、、闇と兄とを切り離して考えるようになっていた。
それらが同一の存在であると認めることは耐えがたかったのだ。
信長は依然震えている妹を一瞥した。

(やる所があれば、さっさとやってしまわなければな)

どう見たって死ぬほど怯えている。
このまま傍に置いているといずれ気が狂うかもしれない。
気が狂ってしまえば使い道もなくなってしまう。
どうせ怯えるなら、己を敵に回してからでも遅くないだろうと思うが、恐怖は理屈の外より生じるものであるから致し方ない。
信長は立ち上がり、市の傍を離れた。







<了>









妹の気持ちを踏みにじらせたら信長様の右に出るものは居ないって話ですね。
若信長は人の気持ちをすぐ察する事が出来るのに、それは(今、どう思っているか)という事実の部分を察するだけで、理解するとか親身になるとか、共感に当たる感情を一切抱かない所が酷いと妄想。でも普通に仲良くしたりも出来ると思う。好意を持つ事は、有り得るので。
だから市の事も何も憎くて恐がらせてるわけではないのです。悪気の塊みたいな人だけど、こればっかりは悪気は……まあ、そんな事弁解にも何にもなりません。非情なのは事実!
慟哭、っていうのは市の武器の双頭の薙刀の名です。
この物騒な名前、浅井領内にあるわけない、絶対織田から持っていったんだコレ!という萌えから出来た話ってだけだったのですが、また例によって辛気臭くて済みません。このきょうだい、書いててすっごい楽しいのですが。歪んだ仲良し(仲良し!?)。
それでは、読んでくださって有難うございました!お疲れ様です。