大きく口を開けた、深く暗い沼がある。
その沼に光が振る。
幾人もの戦で散った魂達である。
夜、月に照らされ降る粉雪のように美しいそれは、水面に触れると、ふっ、と溶け消えたように失われていく。
それでも後から後から、新たに魂が降る。
黒い沼は色を変えない。水面も変化しない。
ただ、じわじわとその領域を広げていく。




―目を開けたまま、悪夢を見ていた―

名を呼ぶ侍女の声に市は我に返った。

「勝たれたそうですわ! ええ、私は信じておりましたとも……、本当に宜しゅうございました」

兄の初陣の勝利の報が届いたようである。
市に報告しながらもその若い侍女はぽーっと頬を染め、いかにも嬉しそうに身を揉んでいる。
妹である自分よりも遥かに喜びにのぼせ上がっている侍女を見て、市は微かに疎ましそうに眉を顰めた。
「そう」とだけ答え、衝動的にその場に立ち上がる。
侍女は一瞬ぽかん、としたが、やはり市もまた心配であったのだと思い直した。
だが市はその間も戸の方へ向かっている。慌てて
「あれ、市様どこへいらっしゃいますの」
問いながら後を追おうと身を起すと、市がちらりとそちらへ目線だけをよこした。
ほっとしたという顔ではない。
伏せがちな瞼の下の、長く生え揃った睫毛の下から、何も映していないような、冷然としてさえ見える目が覗いている。
「兄さまにお会いしてくるわ」
感情の篭らない声に、刹那、ぞくりと背を這い登るものを侍女は感じた。
その正体も分からないうちに、市の背はもはや廊下を遠く隔てている。

(市様はどうなさったのだろう)

侍女は暫く呆然とした思いを味わった。




喧騒。血生臭い空気。
信長の居城周囲には戦の残滓が色濃く纏わり付いていた。
勝ち戦であり興奮といってもいい活気が溢れてはいたが、それでも負傷した者の呻く声も聞こえる。
膿み始めた傷口のような不快な匂いが漂う。
だが市はその形のいい眉を顰める事すらしない全くの無表情でその中を突っ切っていった。

「おや、あれは市様じゃないか?」
「え、どこだ? あ!本当だ!」
「市様、何故このようなところにいらっしゃるのだろう」

口々に不思議がる兵士の声も聞こえていない。

「兄さま」

庭先に、まだ具足も付けたまま、返り血も拭かぬ姿の信長が立っていた。
光沢を持つ白銀の南蛮具足は今はぬらぬらとした血で濡れ、所々赤黒く固まった汚れがこびりついている。
呆れた事に上はいつもと同じでさらしを巻いたきり。だが見えるのは古くからの傷跡ばかりで、新たに開いたものは見当たらない。
それでも全身、浴びたように血で覆われている。赤鬼の様な姿だった。

「おう、何だ市。出迎えか?」

このような場まで一人でやってきた市に少々驚いた様子ではあったが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。
生まれて初めて戦場に赴き、多くの死を見た筈である。自ら手にもかけたはずだ。
それだというのに初陣前といささかの変化も信長には見られなかった。
こうも血に塗れていなければ、鷹狩かただの散歩の帰りだと言われても信じるだろう。

「こんなとこまで来んでもいいのに、お前大げさだな」
「うん。どうだったの?」
「どう、ということも無い。こんなもんだと思ってたらその通りだった」

事も無げに言いながら、足の具足を外そうと苦戦している。
血の塊が隙間にこびりつき、外すことが難しくなっているようだ。
爪で引っかいたり、小枝で隙間をつついたりしていたが、じきに諦めた。

「駄目だな。湯があれば取れるだろう」

言うとどっかとそのままの姿で縁側に腰をかけた。

「ああ、腹が減った。湯漬けでも食いたいな…どうした、何を笑ってるんだ」

自分もにやにやしながら信長が聞いた。
市は自覚も無しに笑みを浮かべていたことに、言われて初めて気が付いた。

「うん」
「うん、じゃわからん」
「何でもないよ」
「何でもなくてにやにやするか。変なやつめ」

市はあの日、信長の話を聞いて以来、気が付けば信長の姿を追っていた。
何かの拍子に、信長が悪魔か何かに変容してしまうのではないかという恐れが意識下にこびり付き離れなかったのだ。
感情として自覚できる意識の奥のもので、本人には漠然とした不安としてしか認識されてはいない。
そうなってしまうのを恐れ、決して見たくは無いと思いながらも、そうではない事を確かめずにはおれなかった。
そして”何かの拍子”があるとしたら、戦は大いにそれである可能性が高いと感じられた。
だが、目の前の信長はいつもの調子のままである。

それどころか、市は知る由も無いが、信長は戦場においてもそのままであった。
少しも動揺も怯えもせず、平生のまま人を殺した。
それは敵は勿論、幾多の味方達の心胆を寒からしめていた。
普通の神経ではない。

だが市にはとにかく”変化が無い”事は良いこととしか思えなかった。
ほっとしたのもあって自分も兄の横に腰掛ける。

「俺が無事で安心でもしたか」
「う、うん……でも、もともと兄さまが勝つと思ってたよ」
「実際つまらぬものだったぞ。大局の何が変わるわけでもない。この程度の戦に出るので心配されていたのではたまらんな」
「でも菜々は喜んでた」

ふと嬉々として勝利を伝えてきた侍女の事を思い出した。
ちら、と信長を横目で伺いながら言うと、

「だろうな、この間からあれは俺に惚れてる」

などと満更でもなさそうな顔をして言う。

「でも、前までは兄さまの事、苦手といっていたのに」
「口だけさ。まあ、若しくは本当にそうだったのかも知れんが…結局の所、女は俺を嫌いきれん」

信長は振る舞いや出で立ちから大概は周囲に疎んじられるか、笑われているかだった。
だが少し賢しげな所を見せると、相手は急に落ち着かない態度を取り始める。
頭から、うつけと決めて掛かってはいたが、これはどうなのだろう、と。
それは人として当然のことではあったが、市はそれが不快だった。
世間の目、というものの浅ましさを見る思いだった。
思い込みで軽視しておきながら、態度を変えるなどと虫が良すぎる。
そして信長もまた、「馬鹿なことだ」と断じてくれると思っていた。
だが存外に屈託無く嬉しそうにしているのを見て、突如市は言いようの無い寂しさのようなものを感じた。

「しかしあれだな、市」

言われて俯いていた顔を上げると、真っ直ぐに兄の切れ長の目が市を見ている。

「お前、女であるのに血に怖じないんだな」
「…え……?」
「やはりお前は面白いやつだ」

信長は楽しそうに笑っていたが、市は困惑して立ち上がった。

「う、うん……。兄さま、市もう帰るね」
「ん? そうか」

動揺したまま、足早に歩を進める。
市の華奢な足が交互に前へ出るたびに、下で踏まれた草がかさこそと鳴った。

血に、怖じる?
何故、血に怖じる事があるの?
だって、誰の体も流れてるものじゃない。
傷が付けばそこから流れ、溢れ出す。誰だって知っている、当たり前の事。
戦で斬り合えば血が出ることくらいわかる。
そうして流れた血を、何故見て怖じるのだろう。
わからない。
ただの赤い液体が、何故怖いの?

「お帰りなさいませ市様―」

やはり突如いなくなった市を心配していたようで、先の侍女が屋敷の前で待っていた。
市を見て安心したように駆け寄り、声をかける。
が、語尾を言い終わる前に、ひっと短く悲鳴を発し、凝然と市を見つめた。

「い、市様、それは、どうなさったのです」

言われて自らの姿を省みる。
いつの間にだろうか、服の右袖にべっとりと、どす黒い血が付いていた。
市のものではない。戦帰りの兵達の間を通る間か、信長といた間かに、何かの拍子に付いたのだろう。

「市のじゃないわ。付いたの」
「そ、それなら良う御座いますが…。すぐにお着替えご用意いたしましょうね。そんな…恐ろしい」
「血は、恐ろしいの」
「ええ、それはそうで御座いましょう……市、様?」
「どうして恐ろしいの」

尚も問う市の尋常ならざる様子に、侍女は答える事も出来ずじっと市を見返した。

「血なんて……なんだっていうの」

市は低い声で小さく呟いた。
ぞっとするような冷たさが、その声にはあった。



<了>










病質を懐く